盛岡市によって作成された盛岡城跡公園の公式ガイドマップです。
盛岡城跡公園のなりたち
盛岡城は、要害の地である北上川と中津川の合流地点に位置した丘陵地を利用して築かれた城で、盛岡南部氏20万石の居城でした。初代盛岡藩主南部信直(なんぶのぶなお:南部家26代当主)が1597(慶長2)年に鋤初め(すきはじめ)、豊臣秀吉から築城普請の許可を得たとされる翌1598(慶長3)年から3期にわたり築城工事が進められました。
1期は、当地が「不来方(こずかた)」と呼ばれていた時代にこの辺りを治めていた福士氏の館の堀を埋め、平坦地を拡張して築かれました。本丸・二ノ丸の一部には石垣が積まれ、瓦葺きの櫓(やぐら)や門などもありましたが、中腹の腰曲輪(こしくるわ)や二ノ丸西側・三ノ丸などは土手のままで、周囲に木柵が廻っていました。腰曲輪が石垣になるのは盛岡城の2期の段階で、このとき本丸石垣も積み直され、双鶴(向鶴)紋の瓦が葺かれます。しかし間もなく、本丸は落雷で焼失してしまいます。本丸は1674年(延宝2)年から再建が始まり、これに伴い、二ノ丸西側も北上川の川筋が切り替えられ、1686(貞亨3)年にかけて高い石垣が築かれます。これが3期で、この時期から天守である三階櫓などには、赤い瓦が葺かれるようになります。
その後も、盛岡城内は、本丸を中心として幾度にも渡る拡張が行われ、本丸西側に聖長楼と呼ばれる三階建ての御座所を設けるなど、他にはあまり例のない複雑な構造の城となり、幕末を迎えます。明治維新により、盛岡城は兵部省(のち陸軍省)の所管となりましたが、荒廃が進み維持が困難なことから廃城となり、1874(明治7)年にほとんどが取り壊れてしまいました。その後、城跡は1890(明治23)に南部家に払い下げられましたが、1906(明治39)年に岩手県が南部家から30年間の無償貸与を受け、城跡を中心に公園として整備を開始しました。公園設計は、秋田市の千秋公園など全国各地の公園や庭園の設計を手がけた長岡安平(ながおかやすへい)があたり、同年9月15日に『岩手公園』として開園しました。
1394(昭和9)年に、岩手県から管理を移管された盛岡市は南部家から敷地を買い取り、1937(昭和12)年には東北随一の美しい石垣の残る城跡してして、国指定史跡となりました。1956(昭和31)年には芝生広場の整備にも着手し、現在では、風格ある石垣とともに様々な花木が四季を彩る都市公園として、イベント・レクリエーション・憩いの場として広く市民に親しまれています。