佐敷城の城址入口駐車場に設置されている案内板の内容を紹介します。
国史跡佐敷城跡(さしきじょうあと)
(指定年月日 平成20年3月28日)
◇指定名称 佐敷城跡(さしきじょうあと)
◇指定面積 8万3490.54m2
◇葦北郡芦北町大字佐敷字中丁49番1号ほか
佐敷城は、16世紀後半に肥後国(現在の熊本県)を治めた加藤清正(かとうきよまさ)が薩摩国(現在の鹿児島県)や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築かれた近世城郭で、城山(しろやま)(標高87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠(さしきたろうとうげ)を一望できます。
肥薩国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは二度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは葦北郡一帯に残っています。
大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15年(1638年)、天草・島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。
城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから三時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅角部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。
発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦(てんかたいへいこくどあんのんめいおにがわら)や豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦(きりもんいりおにがわら)、文禄・慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。
このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治・軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。