三の丸御殿の正門として寛永15年(1638)に建てられた現存建物で、別名「黒門」と呼ばれており、廃城後に唯一残った遺構だそうです。県の指定文化財。
三の丸御殿の正門として寛永15年(1638)に建てられた現存建物で、別名「黒門」と呼ばれており、廃城後に唯一残った遺構だそうです。県の指定文化財。
佐伯小学校の教師だった野村越三は、大変優秀で人柄も素晴らしいのみならず、スポーツの重要性を認識し、スポーツ教育指導にも力を注ぎ、スポーツ振興にも力を注いだ方だそうです。
元自由民主党衆議院議員で、第三次鳩山内閣で郵政大臣、第二次岸内閣改造内閣で建設大臣、三木内閣でも郵政大臣を務めた人物だそうです。
母ようどんそなへてわたくしもいただきます 種田山頭火 いま一度 この世に生きよと 同じ名を おのが娘に つけにけるかも 工藤好美
入城口に建つ鳥居は、山頂で佐伯藩初代藩主毛利高政公と8代藩主毛利高標公が祀られる毛利神社のものだそうです。
城山は明治2年(1869)版籍奉還により、明治政府の国有林となる。その後、佐伯県執事係、山中盛太郎氏の陳情により、明治34年(1901)、毛利家に還元され、明治44年(1911)に記念碑が建立されました。
登城口の1つで、藩政時代より続く当時に実際使用されたままの勾配のあるコースとなっています。
有事の際には、廊下橋を落として敵の侵入を防ぐといわれており、堅固で実践的と評される佐伯城を象徴する施設となっています。
山頂の曲輪は総石垣で築かれており、本丸の石垣は高さ6mあります。
本丸外曲輪より城下と佐伯湾を望む。映画「釣りバカ日誌19」のロケ地にもなっています。
本丸外曲輪にある国木田独歩の碑で、独歩は城跡にもよく訪れていたようで、城山を舞台にした「春の鳥」という哀しい話を残しています。
北出丸北側の虎口で、石垣と石段で造られています。この先は若宮の道となっており、若宮八幡宮へと続いています。
佐伯城の北東に張り出した南北に細長い曲輪で、食い違い虎口によって本丸と区切られています。
食い違い虎口によって本丸と区切られ、この虎口には渡櫓門が設けられていたそうです。
二の丸跡より南東方面を望む。
本丸の西側に位置しており、東西から南北に折れ曲がるL字状の曲輪となっています。かつては二重櫓や平櫓、二の丸居館といった建物があったそうです。
西出丸との境目は急勾配の石畳が敷かれた虎口となっており、渡櫓門が設けられていたそうです。
佐伯城の南西に張り出した南北に細長い曲輪で、二の丸の南に一段低く位置しています。
西出丸より南側を望む。佐伯市の市街地を流れる中江川や番匠川を見ることができます。
西出丸にある大きな丸い穴で、内側はレンガで固めてあり、戦時中佐伯には海軍航空隊が置かれていたらしく、見晴らしがよいここに高射砲があったそうです。
二の丸から撮影。廊下橋を渡ると天守曲輪ヘ行くことができます。
天守台の石垣は高さ約1m、大きさは約13m×約15mほどあります。
佐伯城の本丸は中心に天守曲輪があり、さらにその内側に天守台が設けられています。
現在は小さな祠が建てられています。かつては三重天守が建てられていたそうです。
毛利高慶が宝永年間(1704~1711)に大改修したもので、中央に巨大な階段がありますが、これは後世に造られたそうです。
平城29年(2017)の石垣調査で、本丸外曲輪の北斜面にひな壇状の4段石垣が見つかり、調査当初は近代のものと思われていましたが、享保20年(1735)に築かれていることが判明したそうです。
緩やかで登りやすい散策に適したコースで、一番人気のある登城路となっています。
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