榎本事務所(原作)と色s先生(作画)による滝山城の歴史を描いたマンガです。
北条氏が関東に勢力を伸ばしていく中で、守護代家である大石氏の養子となったのが北条氏照です。氏照はその後、八王子城を築くのですが、その理由のひとつになったと考えられるのが武田信玄との戦い(滝山合戦)です。今回はその合戦を舞台にして、滝山城の縄張り全体がイメージできるように描いていただきました。
マンガでわかる滝山城
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知ってるとより楽しめるかもしれないうんちく
以下、マンガに登場する固有名詞などについて補足したほうがより楽しめるかなと思ったことをまとめます。あわせて読んでくださいね。
氏照と北条一族
北条氏照は関東の戦国大名、北条氏の一族である。父親は北条3代目、北条氏康。兄の氏政が4代目として当主の地位を受け継いだ。
一族のはじまりは、室町幕府の重臣・伊勢氏の伊勢新九郎盛時が京を離れて東国にやってきたことにある。東海地方の今川氏に盛時の姉が嫁いでいて、その子(甥)が今川氏の後継者争いに巻き込まれたのを助けたことから関東近くに拠点を持つようになった。そこから伊豆、そして相模国(現在の神奈川)へ進出し、以後5代100年にわたって関東で大きな勢力を誇ったのである。なお、盛時は「北条早雲」と呼ばれることが多いが、実際に「北条」を名乗るようになったのは2代目の氏綱から。
北条氏は初代の頃から庶民への税を「4公6民(収入の4割を収める。それ以前は5公5民だったという)」など善政を行った。さらに戦国時代は一族内部での権力争いが当たり前だったが、身内同士でほとんど対立することなく団結して敵と戦うなど、優れた一族だった。氏照たち兄弟もそれぞれ重要な拠点を任せられ、一族のために尽くしたのだ。
氏照はどうして滝山城主になったのか?
北条氏照が滝山城主になった背景には、関東における北条氏の勢力拡大がある。北条氏康は、武蔵国(現在の埼玉・東京・神奈川の一部)の河越城をめぐる戦い(河越夜戦)で、古河公方・山内上杉氏・扇谷上杉氏ら関東の有力大名に勝利した。
氏康はこの戦いを機に、関東の北部へ自分たちの領地を広げようとした。このような時、戦国大名はどうするのか。力に物を言わせる手もあるが、他のやり方もある。地元の武将(国衆という)を味方にすれば、戦わないで済むのだ。さらに、自分の子どもを国衆の家に養子や婿として送り込めば「国衆の身内であると同時に自分の忠実な味方でもある」ということになる。これは当時広く使われていた政略で、毛利元就が次男の元春を吉川氏に、三男の隆景を小早川氏に送り、2つの国衆を味方にしたケースが有名だ。
同じように、氏康も自分の三男の氏照を武蔵国の守護代(国の長官代理のような立場)で滝山城主である大石氏の娘・比佐の婿養子にした。これで滝山城主になった氏照は、ここを拠点に北関東への勢力拡大で活躍することになる。
三増峠の戦い
滝山城を落とせなかった武田軍は、その後どこへ行ったのだろうか。漫画の中で少し氏照たちも話しているが、北条氏の本拠地である小田原城を攻めている。もともとの目標はこちらで、滝山城は落とせたらラッキーくらいだったのだろう。しかし、結局は小田原城も落とせなかった。それだけ守りが堅い城だったのだ。
そこで武田軍は引き上げようとしたが、北条氏としても敵に好き勝手やらせたまま帰すわけにはいかない。そこで甲斐(現在の山梨)への帰り道である相模の三増峠(現在の神奈川県愛川町)で待ち伏せをすることにした。この時、氏照も合戦に加わっている。
戦いは当初、北条側が有利だったようだ。しかし、武田軍には別の峠を越えて先へ進んでいた部隊があり、彼らが三増峠に攻めてきたことで戦況が変わった。挟み撃ちにされた北条軍は引き上げ、戦いは武田軍の勝利に終わる。ただ、そもそも武田軍は小田原城を落とせず、多くの有力家臣も討ち死にしたため、見事に勝ったとも言いにくい。
甲陽軍鑑とは?
今回、滝山城をめぐる戦いを漫画にするにあたっては、『甲陽軍鑑』という本の内容を参考にした。これは江戸時代の武士たちに広く読まれた本で、甲斐の武士たちの戦い方や心構え、その活躍ぶりなどが記されている。
中でも甲斐の大名・武田信玄やその息子の勝頼がどのように戦い、また領地を治めたかについて詳しい。武田信玄と上杉謙信が戦った有名な「川中島の戦い」の伝説、つまり「武田軍は上杉軍を挟み撃ちにしようとしたが見抜かれ、ピンチになった」や「信玄と謙信が一騎打ちをした」などの話はこの本がもとだ。漫画で扱った滝山城での武田勝頼と師岡将景の三度にわたる一騎討ちも、そんな風に『甲陽軍鑑』で書かれたエピソードのひとつである。
『甲陽軍鑑』は江戸時代になって執筆された本であり、その内容も出来事の日付など誤りが多く、信憑性に関し慎重視されている。しかし最近では、評価について見直しの動きも進んでいるようである。
領民を守るための城
漫画の中でも滝山城の山の神曲輪にふれた通り、戦国時代の城は単に武士が立てこもって戦うためだけの場所ではない。周辺に住む領民たちを逃げ込ませ、守るための場所でもあったのだ。北条氏はこの点でも領民のことをしっかり考えており、他の北条氏の城である鉢形城や小田原城などにも領民避難用の場所があったことが史料からわかっている。
この究極の形とも言えるのが、豊臣秀吉の小田原攻め直前に作られた、小田原城の総構(惣構)だ。なんと全長約9キロメートルに渡って堀と土塁が築かれ、城だけでなく小田原の町や田畑全体をぐるりと囲んでしまったのである。豊臣軍にも破られなかったこの総構があれば避難場所も必要ない……というのは言い過ぎかもしれないが、北条氏の城作りと領地、領民への考え方がよくわかる構造物ではあろう。また、総構の手法は小田原攻めに参加した敵の大名たちにものちに取り入れられ、たとえば江戸城などでも同様の目的を見出すことができる。
文化・芸能にも長けた北条氏
北条氏は音楽や茶などの文化・芸能にも精通していたといわれる。
特に和楽を好んだ氏照は笛の名手であったとされ、氏照の秘蔵の横笛を預かった家臣が戦の最中に誤って壊してしまうが観音様に祈念したところ全く元通りに直っていたという「笛継観音」をはじめ、笛にまつわる逸話や伝説が数多く残されている。
その他にも、氏照が滝山城の次に居城とした八王子城では、発掘調査によりベネチア産レースガラスが全国で唯一出土されている。遠く離れた諸外国から海を越え渡ってきたこうしたコレクション品の数々からも、北条氏の文化水準の高さをうかがい知ることができるだろう。