御殿屋敷の南側石垣を開削して智頭急行が走っています。
平福宿は川岸に土蔵や川座敷が建ち並び、一軒一軒に川に通じる通路や門がありました。
かつて地元民が花見などをしていた公園(尾根)で、南(写真奥)に利神城の石材の産出地の一つの石切り場があり、北側には岩盤削りだしの堀切があります。 ここから城址まで910mです。
かつて地元民が花見などをしていた公園で岩盤削りだしの堀切があります。 堀切先の尾根は公園化の時に掘り下げられたようで、堀切はもっと深かったそうです。
三本松公園の堀切を越えた先です。古墳だと考えられています。
南麓からの登山道はつづら折れの道で尾根に出たあと三の丸まで尾根上をひたすら歩く感じです。三の丸までは3回の急傾斜と写真のような平場が交互にあります。
三の丸の直下ですので傾斜があります。
三の丸の東側の虎口です。 こちらからは写真奥の尾根側にある馬場へ犬走りが設けられていました。 その途中の斜面には井戸(水溜め)がありました。 (このように新しい案内板が要所要所に立てられています。)
三の丸から手前から大手門跡、二の丸、天守丸と並んでいます。 現在、石垣の崩壊を防ぐ為に石垣のまわりを土嚢と足場で固めています。
去年からガイドツアーでは天守丸まで登ることができるようになりました。
利神城には三層の天守が建っていました。
登城ルートはこの尾根筋になります。
利神城は石垣が崩れかかっているため、ガイド無しでの訪問は現在できません。 また崩れそうな石垣にはバラスをつめた土嚢を敷きつめて保護していたり、足場が組まれています。
利神城の石材は登城道の途中にある三本松公園手前、古地図には「イシヤタケ」と書かれている場所と西山が産地と考えられています。 写真はイシヤタケに残る矢穴のある岩です。
麓からの登城口は鉄道の裏側にあり、城へはつづら折れの道を城の看板のある尾根までのぼり、そこから尾根を1kmほど登って行く行程になります。 写真の特急列車は「はくと」で京都~鳥取・倉吉間を走る特急ですが最寄りの平福駅には停車しません。 また「はくと」が潜っているトンネルは殿町トンネルと言い、写真右(南)側の集落は殿町といい、池田氏が利神城の近代化と平福の町をつくる前はそちらの殿町がこの一帯の中心地であり麓の城館もそちらにありました。
現代の平福の町並みとかつての利神城の姿の模型です。
平福宿の南側の町外には番太屋敷(番所)があり、写真の場所は刑場でした。 またここは宮本武蔵の初の決闘の場所で有馬喜兵衛を打倒した場所でもあります。
平福藩の形場跡にある地蔵
出雲街道平福宿南端にある金倉橋の袂に掲げられた高札。 これを見て13歳の宮本武蔵は初めての決闘を挑んだという。
利神城廃城後、平福藩の政庁として対岸につくられました。 現在、陣屋門の下はすぐ擁壁になっていますが、これはバイパス建設のために削られたためで、かつては写真の撮影場所(旧因幡街道)まで真っすぐ石段が続いていたそうです。
平福宿の本陣跡は当時の建物などはないです。 平福宿の本陣は神吉氏の屋敷で、神吉氏は加古川市にあった神吉城の城主だった神吉頼定の子孫だと言う事です。
「道の駅ひらふく」にて
「道の駅ひらふく」にて
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