烏帽子形城本丸跡にに設置されている案内板の内容を紹介します。
烏帽子形城
この城は残されている記録から一時期使われなかったこともありましたが、室町時代から江戸時代の初め、元和年間(1615年)までは確実に使用されていました。城は北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182mの烏帽子形山に築かれています。
城の築城は南北朝時代に楠正成によって築かれたと伝えられています。応仁の乱以後、河内守護の畠山氏の持ち城であり、安土桃山時代にはキリシタン大名でこの地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。
城は主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には曲輪が造られています。1988年の調査で主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。
復元予想図もあります。