諏訪原城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
国指定史跡(くにしていしせき) 諏訪原城跡(すわはらじょうあと)
諏訪原城は、武田勝頼(たけだかつより)・徳川家康(とくがわいえやす)時代の堀(ほり)、丸馬出(まるうまだし)が良好な形で現存し、戦国時代史(せんごくじだいし)の過程を理解する上で重要な遺跡として国の史跡に指定されています。 当城は、天正元年(てんしょうがんねん)(1573)、武田勝頼が、普請奉行(ふしんぶぎょう)馬場美濃守信房(ばばみののかみのぶふさ)(信春(のぶはる))、その補佐を武田信豊(たけだのぶとよ)に命じ築いたと『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』等に記されています。城内(じょうない)に諏訪大明神(すわだいみょうじん)を祀(まつ)ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。 天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち『牧野城(まきのじょう)(牧野原城(まきのはらじょう))』と改名され、武田方となった高天神城(たかてんじんじょう)(掛川市)を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真(いまがわうじざね)や松平家忠(まつだいらいえただ)らが在城(ざいじょう)し、『家忠日記(いえただにっき)』には、堀普請(ほりふしん)(堀を造る土木工事)や塀普請(へいふしん)などの度重なる改修(かいしゅう)が行われたことが記されています。 天正9年(1581)に、高天神城が落城(らくじょう)し、翌年、武田氏(たけだし)が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城(はいじょう)になったと考えられています。寄贈 金谷地区退職者福祉共済会・島田榛北地区労働者福祉協議会
- 指定年月日
- 昭和50年11月25日
- 追加指定
- 平成14年12月19日