吉田藩陣屋
吉田藩陣屋

[愛媛県][伊予] 愛媛県宇和島市吉田町立間尻1802-3


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.50(--位)
  • 見学時間:19分(--位)
  • 攻城人数:7(3543位)

案内板

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ぴんぞう
   

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撮影場所

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カメラ情報

機種名Google Pixel 8 Pro
ISO47
F値1.7
ホワイトバランスオート
シャッタースピード1/177
レンズ焦点距離6.9 mm
フラッシュフラッシュ未発光、強制発光モード
露出モード自動露出
露出時間1/177
画像方向水平(標準)

文字起こし

吉田藩陣屋跡(よしだはんじんやあと)
宇和島市指定記念物(史跡)
昭和四九年三月一日指定
 明暦(めいれき)三(一六五七)年七月、宇和島藩主伊達秀宗(ひでむね)の五男宗純(むねずみ)は、十万石のうちより三万石を分知され、吉田藩を立藩、居館を吉田の地に定めた。
 同四年一月、宗純は国安什太夫(くにやすじゅうだゆう)を総奉行として陣屋町の造成を行い、陣屋の建設は尾川孫左衛門(おがわまござえもん)の縄張によって工事を開始、翌万治(まんじ)二(一六五九)年七月には早くも一部建築を完工して宇和島より移った。
 陣屋の主要部は、石城(せきじょう)(御殿山)の南麓に位置している。東大手口(ひがしおおてぐち)には立間(たちま)川を分流して国安川と名付け、これを導いて堀とし、陣屋の南側を東行する河内(かわち)川を整備して内外を分け、これと交差する長堀を造成して後背地を区分して陣屋を構築した。
 大出口の太鼓橋の欄干は、寛文(かんぶん)(一六六一~一六七二)年間に禁裡御造営(きんりごぞうえい)をつとめた時の褒章(ほうしょう)として、幕府より使用を許されたと伝わる唐銅(からかね)の擬宝珠(ぎぼし)で飾られていた。
 橋を渡ると枡形(ますがた)に配置された柵門があり、柵門の広場の北、堀端から山麓にかけて三棟の御蔵が鍵の手に建ち並び、南の端には御郡所(おこおりどころ)、御代官所(おだいかんしょ)および御兵具蔵(おひょうぐぐら)があり、御兵具番所(おひょうぐばんしょ)が置かれていた。
 陣屋の正門には、俗に戸平門(とべらもん)と呼ばれた瓦葺の長屋門があった。国道三七八号の南側に石垣が残っているが、これが長屋門礎石の位置を示す名残りである。門から御殿玄関(御式台(おしきだい))までは幅一間の敷石が敷かれていた。
 主要建物は石城を背にして南面して建てられていた。大奥御殿(おおおくごてん)を除き、全て茅葺で木材は精撰された見事なものであったという。御殿の御台所(おだいどころ)の北側あたりの位置(現在地)に井戸が残っており、当時より使われていたと推定されている。
 陣屋は、廃藩後数年も経たずに主要建物が撤去され、明治年中にはあらかたの建物がその姿を消していった。
 現在陣屋の遺構(いこう)としては、井戸と戸平門跡の石垣があるのみで、他に昔日の面影をとどめているものはない。
令和三年三月
宇和島市教育委員会

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こうの)

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