水口岡山城の案内板の内容を紹介します。案内板は国道307号線からの登城口の近くに城跡碑とともに設置されています。
水口岡山城跡
安土桃山時代
水口岡山城跡は、天正十三(一五八五)年に、豊臣秀吉の家臣、中村一氏が大岡山(古城山 標高二八二m)に築いた山城跡である。
城は、豊臣政権の地域支配の拠点として、東海道を見下ろす要衝の地に築城され、「水口城」と呼ばれていた。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の合戦の後、当城の城主、長束正家が西軍に同調したために廃城となり、その後は、徳川政権による直轄支配が始まった。寛永十一(一六三四)年、将軍家の宿館として新たに築かれた水口城には、この城の石材が転用されたとされている。
麓から約一〇〇m高い山頂には、江戸時代の絵図に「天守」と記された広い平坦地である曲輪や櫓台、堀切が連続して配置され、山腹には、竪堀や帯曲輪、虎口(出入り口)などの遺構が今も地形に良く残っている。北側斜面の一部に残る石垣は、安土城跡と並ぶ貴重な高石垣で、城の勇壮さを伝えている。また、出土瓦には高島市の大溝城と同じ文様の軒丸瓦があり、築城時に大溝城から建築部材が搬入されたことを示している。
築城時期や歴代城主が明らかなこの城跡は、滋賀県におけるこの時代の代表例であり、築城から廃城までの十五年の盛衰は、盛んに城が築かれた甲賀の戦国時代の終わりと、徳川政権による新たな時代の幕開けを如実に示している。市内に数ある城跡の中、甲賀の歴史が大きく転換した様相を最も良く伝えているのが、水口岡山城跡である。平成二二年十二月
甲賀市教育委員会