正面から撮影できないので、左右両側から撮影し、文字起こししました。
大平町史跡 榎本城跡
東は巴波川、杣行川、西は永野川(昔はこのあたりでは出流川といった)が南流する要害の地にあり、その規模は東西613メートル、南北396メートルという複郭の広大な城であった。
永禄元年(1558)尾山下野守高朝は小山の出城を榎本に築き、二男の高綱を城主にしたと伝えらあれているが、当城はすでに弘治年間(1555~1558)には存在していた(水代の古城)。高朝の時代は小田原北条氏などの勢力に備えるため榎本城を築く必要があったのであろう。しかし、小山氏はまもなく北条氏に従うことになった。その後永禄6年(1563)の上杉謙信による小山城攻略によって榎本城も占領されるに至り、さらに近世初期の天正2年(1574)閏12月には北条氏政によって占領されている。皆川俊宗が永禄7年(1564)に榎本城を攻めたのは北条氏政の命によるものであったというから、この時代の榎本城は上杉氏や北条氏の覇権争いの中で絶えず翻ろうされていたものであろう。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐(関東征伐)の際には秀吉の軍門に下り慶長8年(1603)まで結城領となった。その後廃城となったが同10年(1605)本多大隅守忠純が28000石の城主として復活。しかし本多氏も寛永16年(1639)断絶し、榎本城はついに廃城となった。
大平町教育委員会
大平町文化財保護審議会
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