目加田城跡に設置された案内板の内容を紹介します。
町史跡目加田城跡
目加田(めかた)氏は、戦国期に近江国守護の佐々木六角氏の重臣として活躍する。天正四年(一五七八)、織田信長が近江に侵攻して安土城を築くにあたり、安土山(目加田山)に在った屋敷を目加田貞政(さだまさ)の所領である光明寺野(目加田)に移した。
天正十年(一五八二)の本能寺の変が勃発、城主堅政(かたまさ)は明智光秀に加担したため秀吉に所領を没収され、一族は離散し、慶長二年(一五九七)廃城になったという。
目加田城公園には城館の周濠(しゅうごう)跡や、比高三メートルの土塁が部分的に残され、公園入り口付近には舟入(ふないり)と見られる内湾部(内堀)が確認できる。平成二十七年三月 愛荘町教育委員会
目加田城
目加田城は、戦国期、佐々木六角氏の重臣として活躍した目加田氏が築城したと伝えられる城館です。目加田氏は、天正十年(1582)の本能寺の変において、明智光秀に加担したことから、豊臣秀吉に知行を没収され一族は離散したとされ、当地目加田は、メカタ姓発祥の地であると言われています。
目加田城は県下でも比較的類例の多い単純な方形構造を持つ平地城館です。現在の目加田集落が目加田城をその南西部分に取り込むように成立しており、ほぼ一町四方の城館主郭(しゅかく)内部においても今日、かなり宅地化が進んでいます。しかしながら、当城跡において残存する土塁は比高3mを有し、今回城址公園として整備を図る地区の遺存状態は良好と言えます。
当城館の特徴としては、現在は既に整地されていますが、城館北側の内湾部の存在があります。これは堀を経て岩倉川に通じる舟入(ふないり)と考えられており、河川を利用した水運が想定されております。また、目加田集落の周囲をめぐる里道においては、外部から集落に入る道が交差するところで3か所食い違いがあり、これを虎口(こぐち)の遺構とみると、目加田集落は城館を中心にして総構え(そうがまえ)で編成されたとも考えられ、留意すべき点と思われます。
平成15年7月、秦荘町史跡に指定。平成16年11月14日