亀居城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
市指定史跡 亀居城跡
慶長五年(一、六〇〇)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は領国八ヶ国の内、防長二ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備二ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。このとき小方の城将には甥の福島伯耆(ほうき)(一万石)を配備して、慶長八年(一、六〇三)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。五年の歳月を経た慶長十三年(一、六〇八)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。
海に面したこの城の規模は、面積十町歩(九九二アール)、周囲十八町(一九六〇メートル)におよび、山頂に本丸、これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸の八台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鏡の丸・妙見丸があって、合計十一台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が掘りめぐらされていたと言われています。なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。
かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃、正則に対する幕府の圧力は非常にきびしく、完成後間もない慶長十六年(一、六一一)、この城は取り壊される運命となりました。大竹市教育委員会