肥田城跡の南、西側の二辺は土塁堀が残っています。 案内板によって城の土塁と書かれているものと、江戸時代に作られた洪水対策と書かれているものがありました。平城なので土塁と堀はあったと予想します。
集落の掲示板に貼ってありました。解説があり、わかりやすかったです。
この丸い城趾碑から100メートルくらい西にも石柱の古い城趾碑がありますが、新しい方には案内板などもあります。 この城趾碑一帯が城趾だったとされ、武家屋敷に囲まれていたようです。奥の山王社あたりは小高い丘になっていて、天守的なものがあったとされます。
肥田城は愛知川と宇曽川に挟まれた湿地帯に作られた平城。城主の高野瀬氏が、佐々木六角氏から浅井氏側に主人を変えた際に、六角氏が水攻めした。石田三成の忍城水攻めと同じで堤防が決壊して失敗したそうです。
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