肥田城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
肥田城跡
肥田城は、宇曽川(うそがわ)をへだてて隣接する高野瀬城(豊郷町)を本拠とする土豪(土着の豪族)高野瀬隆重(たかのせたかしげ)が、江南を領した戦国大名六角氏の命により築いたと伝える平地城館(へいちじょうかん)です。以後、長く六角氏の配下にあった高野瀬氏でしたが、秀隆(ひでたか)の代に浅井長政と通じます。そのため、永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」、翌永禄3年の「野良田表(のらだおもて)の合戦」と、2度にわたり六角承禎の大規模な攻撃を受けましたが、浅井方の援軍により勝利しています。
高野瀬秀隆亡き後、肥田城には織田信長・豊臣秀吉の下で蜂屋頼隆(はちやよりたか)・長谷川秀一(はせがわひでかず)が城主となって活躍しますが、秀一の病死とともに廃城になりました。
江戸時代になり、肥田城の中心部分は開墾されて「上新田」「下新田」の美田に生まれ変わりましたが、その周辺には固有名を冠した屋敷や寺社に因んだ小字名が数多く確認され、家臣団の屋敷地や寺社が広がっていたと考えられます。また、現在、家々の建ち並ぶ「登町」「西町」「東町」は、城下町の町家が整備された区域でした。そして、これらの外周は、今も土塁と堀に囲まれています。宇曽川の水害に対する備えであるとともに、戦となれば肥田城と城下を守る役割も担っていたのでしょう。彦根市教育委員会 文化財部 文化財課