宇土城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
近世宇土城跡(きんせいうとじょうあと)
昭和33年(1958)3月14日指定
市指定史跡(史跡)
宇土市古城町
キリシタン大名・小西行長が築城した近世城郭である。通称「城山」と呼ばれる小高い丘の最高位(標高約16m)に内堀で囲まれた本丸が位置し、二ノ丸や三ノ丸がそれぞれ本丸西側と南側及び東側に配置されている。これらを大規模な外堀が取り囲むという堅固な縄張りで、外堀まで含めた城域は南北500m、東西550m、面積は約20万m2と広大である。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修を行った。しかし、隠居することなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により破却された。さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊されたため、往時の姿はとどめていない。
昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行われ、石垣などの城郭遺構が検出された。また、本丸跡の公園整備工事に伴う発掘調査(昭和53~57年)が実施され、新事実が次々と明らかになった。
調査の結果、当初「小西時代」と考えられてきた石垣や門礎、排水溝などの城郭遺構(上層期遺構)の、さらに1.5~2mほど地下から、石塁や礎石建物跡などの下層期遺構が発見された。下層期遺構は「小西時代」、上層期遺構は「加藤時代」の城郭遺構に相当するとみられ、宇土城跡の変遷を考えるうえで大きな成果となった。
出土品は、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、国産陶磁器(備前焼、瀬戸焼、唐津焼)、銃弾、瓦などがある。なお、本丸周辺では大砲の一部や「慶長十三年銘」の滴水瓦が採集されている。