厳島神社のある宮島は毛利元就が陶晴賢を打ち破った厳島合戦が行われた合戦地でもあります。
毛利元就ゆかりの地厳島合戦跡
1551年(天文二十年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった、毛利元就は1553年(天文二十二年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。
平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)五月、島の宮尾に城を築き、陶の二万余の大軍をおびき寄せた。
同年九月三十日、元就は三千五百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌十月一日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。
この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。
この案内板はフェリーターミナルから出てすぐのところにあります。