多聞山城に設置されている案内板の内容を紹介します。
多聞城跡(たもんじょうあと)
多聞城は、戦国武将、松永久秀が築いた城です。
永禄2年(1559)、久秀は大和に侵攻し、翌年、奈良の町を見下ろす佐保山の一画に多聞城の築城を始めました。永禄8年(1565)、奈良を訪れた宣教師ルイス・デ・アルメイダは、城は瓦葺で白壁の城壁を備え、城内は障壁画で飾られるなど豪華な造りであったと書き残しています。後に「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓や、後世の天守に相当する「四階櫓」が造られるなど、近世城郭の先駆けとなる城でした。
松永氏が退いた後、天正2年(1574)、織田信長が多聞城に入りました。しかし、天正4年(1576)には、信長により多聞城の取り壊しが命じられ、築城からわずか十数年で破却されました。建物の一部は安土城や二条城で再利用され、残されていた石材は筒井城へ運ばれたことが知られています。
城跡は、現在の奈良市立若草中学校の校地と、西側の光明皇后陵、聖武天皇陵を含む範囲と考えられ、北面と東西には堀を巡らし、南面は佐保川で奈良の町と区切られていました。
発掘調査では、石造物を再利用した石組の溝や井戸、多数の瓦などが見つかっています。また、現在でも校門の東側には、校地一帯で発見された墓石類が手厚く供養されています。