大洲城の三の丸南隅櫓は大洲城に現存する4つある櫓のひとつで、国指定重要文化財に登録されています。
櫓は2重2階建てで、外壁には袴腰形の石落しが3ヶ所設けられています。
内部に入ると防弾の効果を高める太鼓壁や、外からは土壁にしか見えない部分を内側から突き破り、火縄銃で攻撃するための「隠し狭間」などの仕掛けが見られます。
国指定重要文化財附建造物大洲城三の丸南隅櫓(みなみすみやぐら)
大洲城は、地蔵獄(じぞうだけ)・亀ヶ岡城、大津(おおつ)城などと呼ばれ元弘年間以後は、宇都宮氏八代の拠点であったが、その後、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主となった。現在に連なる近世城郭として建造整備されたのは、藤堂・脇坂両氏が城主であった慶長年間とみられている。元和(げんな)三年(一六一七)加藤貞泰が領主として米子より入部し、以後廃藩まで加藤氏一三代の居城となった。
城は、丘陵の上部を本丸として、東に肱川、北に久米川、西と南は堀をめぐらしているが、その外側南部の守りの要として南隅櫓を明和三年(一七六六)に築造した。
櫓は、二重二階櫓、本瓦葺となっており、内部は一室である。出窓はなく、外部両端に袴腰形(はかまごしがた)石落としがあり、内部は総壁である。窓格子は化粧とし、軒タルキ(のきたるき)は忠実に塗籠(ぬりご)めにしている。昭和三十二年六月十八日指定
大洲市教育委員会