伝もものふ山田(ヤマー)織田信長の室である「吉乃の方」の墓地があります。
生駒家石造群(久昌寺墓地)
この墓地には、信長の室・久菴桂昌(前野家文書では吉乃とする)と、生駒家歴代の当主及びその室等が眠っています。
生駒氏は、家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和国生駒郷(現奈良県)に住み、文明・明応(一四六九~一五〇〇)の頃に初代家広が小折村へ移り住んだといわれています。
四代家長の妹久菴桂昌が信長の室となり織田家との関係を深め、家長も信長の家臣として活躍し、生駒家の存在感は大いに高まりました。
久菴桂昌は信長との間に、信忠・信雄・徳姫(家康の嫡男信康の正室となる)の三人の子を産みました。
五代利豊は主家が秀次、秀吉と替わりましたが、関ヶ原の戦いの時には、福島正則に属して戦功をあげ、家康の命によって松平忠吉、徳川義直に仕え、知行二千石を賜り、ここに尾張藩士としての地歩が固まりました。
以後、尾張藩士として代々勤める中、功績あって六代利勝の代に三千石、十代周房の代に四千石の大身となりました。十代周房、十一代周邑、十四代周晃、十五代周行は年寄(老中・家老相当役)まで昇進し、尾張藩政の中枢を担いました。また、周行は明治政府(太政官)から愛知県の原型となる名古屋藩の権大参事に任ぜられました。
墓地の北西の位置に東を向いて久菴桂昌の墓(圭頭板形墓碑)があり、その左には初代と二代、三代夫婦、四代夫婦、五代夫婦と二人ずつ合蔡となった墓(笠付板形墓碑、大型のものは江戸時代前半に多い)計四基が並んでいます。
六代利勝の室以降は個々に葬られ、墓地の南西側(東向き)に十五基と北側(南向き)に八基の大きな圭頭板形墓碑(寛政期以降の大型のものは珍しいとされる)が林立しています。
これら生駒家歴代の墓碑は平成二五年一〇月三〇日に市の文化財に指定されました。
この他、指定文化財にはなっていませんが、この墓地には歴代住職や一五代周行後の生駒家の墓碑等もあります。
平成二七年三月 江南市教育委員会
久昌寺の本堂裏の広場に設置されていました。
山号は嫩桂山(どんけいざん)です。 織田信長の室である「吉乃の方」の墓地があります。
織田信長の室である「吉乃の方」の墓地があります。 中央後方に見える森は、生駒氏の氏神「龍神社」です。
右端が、織田信長の室である「吉乃の方」の墓石です。
織田信長の室である「吉乃の方」の墓地があります。
裏側に説明が書かれています。
案内板からの抜粋です。
生駒氏の氏神であり、織田信雄の守護神でもある龍神社です。
生駒氏の氏神である龍神社の説明です。
織田信長の室「吉乃の方」の御殿跡です。
吉乃御殿跡に置いてある力石です。 地面に固定してあるので、地球の重さです。
吉乃御殿跡の横にありました。
吉乃御殿跡の横にある雨壺池の説明です。
織田信長の室「吉乃の方」が荼毘に付された地です。 江南市指定文化財の「彼岸桜」は、吉乃の方を供養するために植えられたと伝わるそうです。
織田信長の室「吉乃の方」の荼毘地にある案内板です。
小牧・長久手の戦いの際に徳川家康と織田信雄が登り、豊臣秀吉方の陣形を見渡したそうです。
小牧・長久手の戦いの際に徳川家康と織田信雄が登り、豊臣秀吉方の陣形を見渡したそうです。 富士塚の上には生駒家の由緒を記した石碑が建てられ、指定文化財になっています。
小牧・長久手の戦いの際に徳川家康と織田信雄が登り、豊臣秀吉方の陣形を見渡したそうです。
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