藤枝市によって作成された田中城跡の散策ガイドです。
■田中城の歴史
藤枝市田中にある田中城は、今川氏の時代には徳一色(とくのいっしき)城と呼ばれ、土豪・一色左衛門尉信茂の居館から発展したものと考えられています。江戸時代の地誌によると、今川義元の元には由井美作守や長谷川次郎衛門正長が守将となったとされています。 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が戦死し、今川氏の基盤が崩れ始めた機に乗じ、甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始しました。元亀元年(1570)、花沢城(焼津市)の落城をうけて、正長は徳一色城を明け渡し、遠江に退去しました。徳一色城を手に入れた信玄は、馬場信春に命じて三日月堀(みかづきぼり)(馬出曲輪)(うまだしぐるわ)を作らせ、城の守りを堅固にしました。徳一色城は、田中城と呼ばれるようになり、遠江に対する戦略的な拠点として位置づけられました。
信玄の死後に家督を継いだ武田勝頼は、天正3年(1575)の長篠の合戦で織田・徳川の連合軍に大敗し、その勢力図は一変しました。徳川家康は遠江・駿河にある武田方の諸城を攻略しにかかり、田中城もまた徳川軍の度重なる攻撃を受けました。徳川軍は、麦や稲を青刈にするという苅田(かりた)という作戦をよく用いました。天正10年(1582)2月には、織田・徳川・北条氏が連携して武田領国への進撃を開始し、3月1日、ついに田中城は開城しました。
江戸時代には田中藩が置かれ、駿府の西の守りとしての重要さから、諸代大名が田中城に入り治めました。城主は12氏21代を数え、入城・転出に際して加封されたり、幕府の要職に任じられた物も多数いました。また、江戸時代の後期には、藩校の日知館(にっちかん)が城内に設立され、多数の武芸者・文学者を輩出しました。
大政奉還により、志太地域は静岡藩の領地となったため、田中藩は安房国長尾(あわのくにながお)へ転封となり、藩主本多家と家臣一同は新しい領地へ移っていきました。ここで、長く続いた田中城はその役割を終えることとなりました。■田中城の構造
田中城は4つの曲輪(くるわ)(区画)と4つの堀が同心円状に配置されており、その形状から別名「亀城」「亀甲城」と呼ばれていました。城の始まりは一色信茂の居館であるといわれており、本丸・二の丸の方形の部分がこのことに由来すると考えられています。三の丸は四隅が突出しており、この形状が亀に似ているとも言われています。
武田信玄が攻略した際には既に三の丸まで存在しており、武田氏による改修で6箇所の馬出しの曲輪が築かれたとみられます。そして、田中藩初代藩主である酒井忠利が、三の丸の外側に円形の堀と土塁(どるい)を設けました。その内外に侍屋敷を造成し、近世田中城の基本的な形が整いました。
田中城には江戸後期には天守閣は無く、本丸隅の石垣上2箇所に二階建ての櫓(やぐら)が建てられていました。また、堀はかきあげのままで、このかきあげた土で作った土塁も高く積み上げただけの素朴な築城でした。その一方で、六間川と四の堀を繋いでおり、川をせき止めることで全ての堀に水が進み文字通り浮城化する仕組みとなっており、周囲の湿田とあわせ、堅固な城でした。
田中城は、東海道の近くに立地し街道の押さえの城であるとともに、青池から発する六間川の水運により、瀬戸川から海につながる城でもありました。■御成街道(おなりかいどう)
江戸時代には、田中城内へ通じる木戸口は東西南北の4つありました(東の平島口、西の清水口、南の新宿口、北の藤枝(大手)口)。そのうちの平島口から平島村・上当間村を通って鬼島村の八幡橋で東海道と合流する道のことを、御成街道といいます。これは、江戸時代はじめまで平島口が田中城の正門だった頃、この道を通って大名・武将が行列を従えて田中城へ出入りしたことから名づけられました。
徳川家康は、晩年になって大御所として駿府城に隠居していたおり、山西とよばれた志太地域に鷹狩りによく出かけました。その際、御成街道を通ってしばしば田中城を訪れたといわれています。
初代田中藩主となった酒井備後守忠利は、藤枝宿から城内に通じる大手口を開設し、東海道と田中城を最短距離でつなぎました。これにより、大手口が田中城の正門となり、平島口の城門(平島一の門)は開かずの御門となりました。これ以降、東海道から大手口を通って城内に入る道が正式なルートとして整備されていきますが、御成街道はその後も利用され、八幡橋から焼津方面へ抜けるルートとして往来する人々が多かったようです。現存する田中城絵図には「御成道」との表記が見られるものがいくつかあり、江戸時代にはこの呼称が定着していたことがわかります。絵図には、御成街道の全長は「此木戸より八幡橋迄拾六町拾間」(約1.76km)と書かれています。
御成街道は、戦前までは昔のままで、幅9尺(2.7m)の道の両側は高さ4尺5寸の土塁で固められ、松並木がそびえ立っていました。現在では、舗装道路が平島-上当間の間のたんぼのなかを走っているのみですが、街道の周辺には家康にまつわる史跡・寺社が点在しています。■田中城・御成街道ゆかりの伝説
・徳川家康と鯛のてんぷら
晩年の家康は、鷹狩りと称してたびたび田中城を訪れました。元和2年(1616)1月21日、家康は田中城に宿泊し、京都で流行しているという料理、鯛をごま油であげ、にんにくをすりかけたものを機嫌よく、いつもより多く食べました。その夜、腹痛と食あたりをおこしました。家康は、薬の服用により小康を得て、25日駿府城に帰りました。この食あたりは、疼痛(とうつう)を伴う内臓疾患の前触れでした。
家康は医薬に強い関心と深い知識を持っており、寸白虫(すぱくちゅう)(条虫)が原因と自己診断しました。そして、侍医・片山宗哲の、老齢による病状の悪化を案ずる諌めを耳に入れることなく、常備薬のひとつで強壮薬の万病円を服用し続けました。
その後、病状は回復することなく、4月17日、駿府城内にて天寿75歳をまっとうしました。死因は、胃がんという説が有力です。
・思案橋
八幡橋から御成街道に入ってしばらく行ったところに、かつて思案橋という橋がありました。江戸時代、東海道と間違えて御成街道を進んでしまった大名がここで考え直して東海道へ引き返したことから、この名がつきました。
・平島節
明治維新により田中藩主・本多正訥(まさもり)は安房国長尾へ転封になりました。本多家の一行は平島口から御成街道を通り、長尾へ向かいました。そのとき平島で、付近の百姓たちは道の両側に土下座して見送り、殿様が通り過ぎる時には別れを惜しみ大声で泣いたといいます。これ以後、平島では大声で泣くことを「平島節を唄う」というようになりました。なお平島の梅原家には、このとき殿様が置いていったという地の神様が今でも大切に祀られています。