三ノ丸と城下を区画する水堀の東端で水堀が南に折れて、武家屋敷と町家を区画する水堀になっていました。道は細いけどずっと辿って行けます。
第一駐車場あたりから山門まで石垣が続きます。 行基寺は尾張徳川家2代目次男・が高須藩主となった際に菩提寺として伽藍を再建しました。石垣で囲まれお城のようですし、書院には藩主の間があります。
濃尾平野が一望できます。お月見をしたいものです。
濃尾平野が借景の枯山水庭園。ハスがぽっかり咲いてました。
回廊式庭園の真ん中あたりに位置する小書院にあり、いろんな風景が楽しめる藩主の間です。 明治維新までは一般人は入山すらできませんでした。
サツキが多いので初夏に訪れると鮮やかだと思います。
枯山水の主庭と対照的なモフモフの苔庭があり、岩盤から滝が落ちています。ビーバーみたいな岩が気になります。
断層と石垣のミックスになっています。廊下から近く、すごい迫力です。
高須松平家菩提寺行基寺の第一駐車場にあります。 戦乱の時代には狼煙台でしたが、行基寺が高須松平家の菩提寺となってからは、燈台があり、行き交う濃尾平野の船の目印となったとのことです。
城域北側の防御、大江川にかかる大江新橋。かわいいサイズのお城が載っています。
海津市歴史民俗資料館の三階は高須松平藩御館の一部が復元されていて、靴を脱いで上がります。 御書院之間は、広間や対面所の機能を包括した、行政的・公的な中心殿舎となっています。 殿中で最も格式が高く、装飾性が高いそうです。
海津市歴史民俗資料館の三階は高須松平藩御館の一部が復元されていて、靴を脱いで上がります。 山吹之間 は北に御寝所が続く比較的日常的な書院として使われていました。
三ノ丸と城下を隔てる水堀に架かる主水橋、東側はポケットパークになっています。
ポケットパーク東屋近くにあります。色分けされてわかりやすいです。
三ノ丸と城下を分ける水堀にかかっている主水橋、付近に家老の稲葉主水屋敷があったことから名付けられました。かつては板橋で、北側に土塁があり番所がありました。
三ノ丸と城下を区画する水堀の東端で水堀が南に折れて、武家屋敷と町家を区画する水堀になっていました。道は細いけどずっと辿って行けます。
当時の高須城主、高木盛兼は西軍につき、東軍についた今尾城の市橋長勝、松ノ木城の徳永寿昌に攻められ、船で落ち延びたそうです。
三ノ丸にある城跡公園の北東隅にあります。 北側の高校や会社一帯が二ノ丸、その北側の道路や会社一帯が本丸だったようですが、遺構はありません。
城跡公園の遊具の周りの石は高須城で使われていた石を大江川から引き上げたものだそうです(城趾碑裏より)
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