倉賀野城
倉賀野城

[群馬県][上野] 群馬県高崎市倉賀野町


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.70(--位)
  • 見学時間:17分(--位)
  • 攻城人数:129(819位)

神流川の戦い

神流川の戦い」は上野国の滝川一益と、武蔵国の北条氏直・氏邦らが、国境近くを流れる神流川をはさんで戦った合戦のことです。

合戦の概要

「本能寺の変」の約2週間後に滝川一益の軍勢と北条氏直・氏邦らの軍勢でおこなわれた合戦です。
滝川勢が約1万8千、北条勢が約5万6千という大規模な合戦で、戦国時代を通じて関東地方でおこなわれたもっとも大きな野戦といわれています。

合戦の結果は滝川勢の大敗で、一益は支配していた上野からも逃げ出すこととなり、居城である伊勢長島城まで敗走しました。
さらに一益にとっては織田家の後継者を決める清州会議にまにあわず織田家における地位が急落するなど、ふんだり蹴ったりとなった合戦です。

ざっくりわかる「神流川の戦い」

合戦の経緯

1582年(天正10年)2月に開始された織田家による甲州征伐は、3月11日の武田家滅亡によって終結します。
3月23日、滝川一益は織田信長より上野一国と信濃二郡を与えられ、箕輪城に移りました。5月には関東支配の本拠を厩橋城に移し、沼田城に滝川益重、松井田城に津田秀政、小諸城に道家正栄を配置しています。
また一益は人質を差し出せば本領安堵を約束するとして、関東の諸将は続々と従属を誓いました。

一方の北条氏は「御館の乱」で武田家と上杉家が甲越同盟を結んだことにより、上野の大部分を武田に支配され、その打開策として織田信長と同盟を結んだものの、甲州征伐での加増は得られず、両者は同盟関係とはいえ、微妙な関係となっていました。
おそらく織田家にしてみれば武田と北条が組むことを避けたかっただけの同盟締結で、武田家が滅亡した以上、北条家の機嫌を取る必要性があまりなかったと思われます。

とはいえ、滝川一益が厩橋城に移った5月に開催した能興行には北条家も参加していることからも、表面上は友好的な同盟関係が保たれていました。

「本能寺の変」後の動き

1582年(天正10年)6月2日、織田信長が「本能寺の変」によって明智光秀に討たれると、5日後の6月7日(9日の説もあり)に一益のもとにその報が届きます。
一益は滝川益重ら重臣の反対を押し切って「隠したってどうせバレるから」と従属している諸将を集め、信長父子が討たれたことを報告しています。また、「急いで京に向かい(信長の次男三男である)信雄・信孝を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ」と上洛の決意を伝えています。

信長が横死したことは北条氏政にも伝わっており、氏政は6月11日付の書状において、引き続き協調関係を継続する旨を一益に伝えています。
しかしじっさいには6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していたと考えられています。

「神流川の戦い」とその影響

そして一益が京に向かうより早く、6月16日には小田原城の北条氏直、鉢形城主・北条氏邦(氏直の叔父)、そのほか北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の軍勢が上州倉賀野表(群馬県高崎市)に侵攻します。

一益は、1万8千の兵を率いて北条勢を迎え撃ち、18日の初戦には勝利したものの、3倍の兵力差に加え、与力としてあてにしていた関東の諸将が戦闘参加に消極的であったため、翌19日の合戦では北条勢に大敗することになりました。
その日の夜に一益は倉賀野城を経て厩橋城に退却し、戦死者の供養をおこなったあと、20日には箕輪城を旅立ち、碓氷峠を越えて、小諸城に入りました。

当初、木曽義昌は美濃に通じる木曽谷の通過を拒否していましたが、佐久郡・小県郡の国衆の人質(依田康国や真田昌幸の老母など)を引き渡すことを条件に通過を許可し、一益は7月1日になんとか伊勢長島に帰還しています。

関東管領として東国支配を任されていた一益が不在になり、さらに一益と同様に武田家滅亡後の恩賞として関東に移ってきた北信濃の森長可、南信濃の毛利長秀も領地を放棄してそれぞれ美濃と尾張に帰還しており、甲斐の河尻秀隆にいたっては武田家の遺臣により殺害されたため、織田家は上野のみならず、甲斐・信濃も含め、東国の支配力を失ってしまいました。

また「神流川の戦い」は、北条家・徳川家・上杉家による空白地帯となった旧武田領のぶん取り合戦、いわゆる「天正壬午の乱」のきっかけにもなりました。
(「天正壬午の乱」については後日書く予定)

以下、「本能寺の変」以降の出来事をざっくり整理しました。

日付 滝川一益 北条氏 その他
6月2日     明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を討つ
6月3日      
6月4日      
6月5日      
6月6日     羽柴秀吉が「中国大返し」開始
6月7日 「本能寺の変」の報が届く    
6月8日      
6月9日      
6月10日 上州の諸将を集め、信長父子の死を正直に打ち明ける    
6月11日 長昌寺(厩橋)で能を興行 「本能寺の変」の報が届くが、一益に同盟継続を伝える  
6月12日   陣触れ  
6月13日 藤田信吉の反乱を鎮圧(沼田城の戦い)   「山崎の合戦」で羽柴秀吉が明智光秀に勝利
6月14日      
6月15日      
6月16日   氏直が倉賀野表(群馬県高崎市)へ出陣  
6月17日      
6月18日 「神流川の戦い」開戦、緒戦は滝川勢の勝利 河尻秀隆が殺害される
6月19日 二戦目は北条勢の大勝で、一益は箕輪城へ敗走する  
6月20日 箕輪城を出立 ガンガン追い詰める  
6月21日 碓氷峠を越え、小諸城に入る    
6月22日      
6月23日      
6月24日      
6月25日      
6月26日      
6月27日 小諸城を出立   「清州会議」が開催され、秀吉の推す三法師が織田家後継者となる
6月28日 木曽福島城に立ち寄り、木曾義昌に真田昌幸の老母ら佐久郡・小県郡の人質を引き渡す    
6月29日      
6月30日      
7月1日 伊勢にたどり着く    
旧暦において1ヶ月の日数は現在のように31日(ときどき30日)ではなく、30日の「大の月」、29日の「小の月」でした(日数調整を「閏月」という13ヶ月目を挿入することで解消)。 天正10年の6月は「大の月(大月)」らしいので30日としていますが、もし認識がまちがっていたらご指摘ください。

神流川古戦場跡記念碑

国道17号を通り、神流川にかかる橋を群馬県側に渡ってすぐの場所に記念碑が建てられています。

なお、1791年(寛政3年)に起きた洪水により、現在の神流川は合戦当時とは流れが変わっているそうです。

   

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