ここで続日本百名城スタンプが押せます。
元は聖徳太子によって建立されたと伝わるお寺ですが戦国時代に荒廃していたのを藤堂高虎が津城に入ったことによって厚く庇護されました。1616(元和2)年には高虎の正室である久芳院が四天王寺に埋葬されています。
二代藩主藤堂高次によって1641(寛永18)年に建てられました。津市の有形文化財に指定されています。
元の建物は1637(寛永15)年に藤堂高次によって建てられたましたが1945(昭和20)年7月の空襲で焼失してしまいました。
このあたりに鷹匠が住んでいたことが町名の由来になっているそうです。
この少し南側に当時外堀があり、外堀の北側だけの街並みということが町名の由来になっています。
城より京への出発口である大手門の外に位置する町の跡です。
この石垣の上に沿って北多門と呼ばれる四十七間半(約86.5m)の櫓が建っていたそうです。
本丸の北東隅(丑寅)にあった櫓の石垣です。
本丸東側の入り口である東鉄門の向かいにある曲輪跡です。
東鉄門台の上に建てられた櫓で昭和33年に市民の寄附によりコンクリート製で模擬再建されたものです。
津城本丸の東北隅に位置する櫓が建っていた場所です。戌亥櫓とともに三重三階の城内最大の櫓でした。
城南側内堀だった場所に建てられた神社で藩祖・藤堂高虎公が、祀られています。
ここで続日本百名城スタンプが押せます。
本丸南東隅に建てられた櫓の跡です。
元は城の東にあった藩校、有造館の正門でしたが何度か場所を移り昭和46(1971)年に現在の場所に移築されました。
写真中央を境に古くからの石垣(右)と新しく石積みされた部分の切れ目を見ることができます。
石垣上に登って丑寅櫓と戌亥櫓間の多門櫓跡を歩くことができます。
明治18(1885)年に解体され売却されるまで、津城の象徴的な建物のひとつだった戌亥櫓が建っていた跡です。
かつて二番組に属する藩士の屋敷地とされた町の跡です。
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