井平城
井平城

[静岡県][遠江] 静岡県浜松市浜名区引佐町伊平867


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.06(--位)
  • 見学時間:47分(--位)
  • 攻城人数:86(1295位)

井平氏居館跡

井平家は井伊家七代目、弥直の時代に分家した氏で、井平四郎左衛門直時を祖としています。子孫が戦国時代に討死して断絶するまで、井平家は約350年間、8代つづきました。

井平家は井伊谷領の北にある井平・花平地域を治め、殿村に居館を構えていました。また、直時は居館の北の高地に、井平城を築城したといわれています。

ここは登城口でもあり、現地には案内板が設置されています。

井伊家ゆかりの地
井平氏居館跡 Former Site of the Idaira Residence
 この場所は、井平(いだいら)氏の居館跡と伝えられております。寛元3年(1245)井伊家から分家した井平直時(なおとき)は此処に居館を構え、この先北方の300mの山麓に城を築き、井平氏の祖となりました。それから約330年の間、井平氏は井伊氏を支える有力な家系となり、井伊直虎(なおとら)の曾祖父や祖母(井伊直平(なおひら)の妻や井伊直宗(なおむね)の妻)はこの地で誕生しております。
 元亀3年(1572)武田信玄軍が侵攻した井平城(仏坂)の戦いで当時の城主、井平直成(なおなり)は88名の家臣と共に討死しました。城郭、居館は焼き討ちに遭い、井平氏は一時途絶えました。その後、天正元年(1573)井伊直平の末子、井伊直種(なおたね)が井平氏の当主となり、殿村(とのむら)に居館を築きました。天正18年(1590)直種の嫡男弥三朗(やさぶろう)は、井伊直政の家臣として小田原攻めに参戦し、18才の若さで討死、井平氏は断絶しました。近くには直種夫婦、弥三朗の墓所があり、位牌は長興寺に、御霊は林森神社に祀られております。
This site is said to be the where the residence of the Idaira, a branch family of the Ii, once stood. Ii Naotora's great-grandmother and grandmother both came from the Idaira family.平成28年11月 北区まちづくり推進課
   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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