石垣山城に設置されている案内板の内容を紹介します。
「国指定史跡」石垣山一夜城
史跡石垣山は、JR早川駅の西方二・五km、国道一号線から東へ約一kmのところにあります。また小田原城まで僅か三kmのところにあり、標高二五七mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸一五万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。 秀吉は、この城に滞在していた一〇〇日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけではなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆(あのうしゅう)による野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により昭和六二年度に公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。平成二年三月 小田原市
- 所在地
- 小田原市早川字梅ケ窪一三八三番の一一番
- 指定
- 昭和三四年五月一三日