大多喜城
大多喜城

[千葉県][上総] 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.08(--位)
  • 見学時間:48分(--位)
  • 攻城人数:1447(125位)

大多喜城の天守

大多喜城に天守があげられたのは1590年(天正18年)頃、本多忠勝の時代だとされます。
忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事で大多喜城を改修し、3重3階(または3重4階)の望楼型天守を持つ近世城郭へと大改築を行いました。

この天守は1842年(天保13年)に焼失し、天守の代わりに2重の「神殿」と称する建築が1844年(天保15年)8月に建てられていたと考えられています。
ただしこの「神殿」は大多喜藩が財政難に苦しんでいた時代でもあり、じっさいには粗末な建築物だったのではないかと、この城を研究した渡邉包夫氏は指摘しています。

また、火災があったことに関しては、1973年(昭和48年)の学習院大学の発掘調査でも大量の焼土が発見されたことで裏づけられていますが、改築および天守建築を否定する説もあります。

天守存在説に関しては学界でも論議があり、この城の再建天守の評価が書籍によって「復元」「復興」「模擬」と定まっていないのは実在説の一方で非実在説もあるためです。
(当時の天守を正確に再建した場合は「復元」、天守は存在したが形状が正確でない場合は「復興」、天守が存在しなかった場合は「模擬」となります)

1870年(明治3年)12月に城は取り壊され、その後本丸も削平されました。

現在の復興天守(模擬天守)

1966年(昭和41年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定され、1975年(昭和50年)に城跡に1835年(天保6年)の図面と1827年(文政10年)の写し絵図などを元に、江戸時代の一般的な天守を参考として、推定復元を行って建築したものです。

竣工は1975年(昭和50年)9月10日、設計は藤岡通夫氏です。内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置されています。

   

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今日のレビュー

源頼朝と鎌倉幕府

「日本史の知識をアップデートするための勉強会」の予習として手に取りました。本書は2003年に出版された本の再刊行となっており、その当時著者が学生向けに書いている本なので大変読みやすいです。内容的には、東国で起こった平将門の乱から北条氏中心の体制に移行するまでが解りやすく書かれています。勉強会で使用している高校の日本史教科書で中世が院政の始まりからになっていることがこの本を読んで理解出来ました。また、頼朝が征夷大将軍を欲した訳が2004年に「山槐記」の記事が新たに発見されたことにより変更されているようですが、この著書は2003年に書かれた内容なのでその部分は修正が必要とのことが最後に書かれているので、最後まで読まれることをお勧めします。前述したように学生向けに書かれた本なので、歴史初心者の方も安心して読める一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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