大多喜城に天守があげられたのは1590年(天正18年)頃、本多忠勝の時代だとされます。
忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事で大多喜城を改修し、3重3階(または3重4階)の望楼型天守を持つ近世城郭へと大改築を行いました。
この天守は1842年(天保13年)に焼失し、天守の代わりに2重の「神殿」と称する建築が1844年(天保15年)8月に建てられていたと考えられています。
ただしこの「神殿」は大多喜藩が財政難に苦しんでいた時代でもあり、じっさいには粗末な建築物だったのではないかと、この城を研究した渡邉包夫氏は指摘しています。
また、火災があったことに関しては、1973年(昭和48年)の学習院大学の発掘調査でも大量の焼土が発見されたことで裏づけられていますが、改築および天守建築を否定する説もあります。
天守存在説に関しては学界でも論議があり、この城の再建天守の評価が書籍によって「復元」「復興」「模擬」と定まっていないのは実在説の一方で非実在説もあるためです。
(当時の天守を正確に再建した場合は「復元」、天守は存在したが形状が正確でない場合は「復興」、天守が存在しなかった場合は「模擬」となります)
1870年(明治3年)12月に城は取り壊され、その後本丸も削平されました。
現在の復興天守(模擬天守)
1966年(昭和41年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定され、1975年(昭和50年)に城跡に1835年(天保6年)の図面と1827年(文政10年)の写し絵図などを元に、江戸時代の一般的な天守を参考として、推定復元を行って建築したものです。
竣工は1975年(昭和50年)9月10日、設計は藤岡通夫氏です。内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置されています。