このような手書きの案内板がいくつかあります。(残念ながら全文読めるものは少ない…)
飯羽間城と苗木城の関係
遠山友勝は岩村城景友の次男で飯羽間城主として居たが信長の命により苗木城主となる勘太郎、豊前守とも言われた 甲陽軍鑑品㐧3号に記せられた事によると友勝の娘は信長の養女として清州城より永「■(礻に彔)」8年(1565年)11月13日に武田勝頼(高遠城主と結婚した)永「■(礻に彔)」11年11月信勝出生の折に難産で死亡したと言われている
遠山友忠は友勝の嫡子で父が苗木城主に任じられてから飯羽間城主となりその後明照城(上矢作村)の城主を圣て苗木城主となった
遠山友忠には多くの子供があり友信(飯羽間城主)友重(手賀野の明照城主)友政(苗木城主)正口(苗木家臣勘兵徫)女(山村甚兵衛良勝室)女(坂井清左衛門妻)いづれも飯羽間城で生れていると思ってよい
遠山友信(右衛門佐)飯羽間城主・天正2年3月27日武田勝頼の攻略により落城土蔵にて生捕りにされ武田方に送られる。後に阿木広岡右衛門平にて卒す(文献には恵那郡史、阿木の邦本等に記せられて居り現在も右衛門平(えもんだいらと言われている)土岐大明神の「■(礻に司)」もあり飯羽間城の城山がよく見える場所である
遠山友重は明照城主として居た天正2年2月5日交戰中に死亡
遠山友政は弘治2年(1556年)飯羽間城で出生、母は信長の姪である天正11年(1583年)父友忠と共に浜松にて徳川家康に従う慶長5年(1600年)の戰乱に家康は友政を召「■(ごんべんに靑)」し美濃木曽の地域事情の細部報告に益をなしたためその功績を認め鉄「■(いしへんに包の旧字体)」30丁玉薬2万黄金10枚を与え苗木城の奪回に家康の協力により18年ぶりに敵領となって居た苗木城主に返り咲いて慶長5年(1600年)8月18日から現代まで10数代に引継れ苗木の里には飯羽の城から発せられた血が流れて居り苗木城と飯羽間城の関連と史実の中で先祖のご努力の程を文献により判明し岳城の1角に往時を静かに思い合掌の誠を捧げたいと思います
平成12年春 岩村町本郷㐧一老人クラブ之建
奥のこんもりした山の手前が登城口。
このような手書きの案内板がいくつかあります。(残念ながら全文読めるものは少ない…)
主郭(35.374419,137.411106)に立っています。
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