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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-03)
今日は小堤城山城跡に行って来ました。
希望ヶ丘文化公園の西駐車場に車を止めました。アスレチック・グランドゴルフ事務所脇の登山道を通り、東枯沢登山口(右上写真)から攻城です。沢に沿って登って行くと石垣(右中、右下写真)がありました。城山山頂の手前に直登のロープ(下中写真)がありましたが、ここは右に迂回し虎口、堀切を経由し、1時間程で小堤城山城跡の碑(左下写真)に到着しました。途中で鏡山への登山道もあり昨日、攻城した星ヶ崎城跡との関連も興味がありますね。
遠景写真は近江富士(三上山)と麓の希望ヶ丘文化公園の芝生グランド、競技場などです。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-26)
今日は柏原城跡(徳源院)と太尾山城跡(青岸寺)に行って来ました。
最初に徳源院(右上写真)に行きました。境内に入ると佐々木導誉が植えたといわれる導誉桜(右中写真)があり、清瀧山を借景とした池泉回遊式庭園(遠景写真)は素晴らしい庭園でした。次に太尾山城跡に行きました。青岸寺脇の登城口から30分程で盗人岩に到着。琵琶湖の眺めがよい景色です。(左下写真) さらに進むと別城一郭の北城に到着。土塁(下中写真)が残っていました。下山して青岸寺の雪吊り作業中の枯山水式庭園(右下写真)をコーヒーを飲みながら眺め、晩秋の素晴らしい庭園を堪能しました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-24)
昨日は久々利城跡に行って来ました。
美濃守護大名土岐氏の一族久々利氏の拠点です。居館のあった麓を土岐につながる五斗蒔街道が通り、近くには古窯跡が多く残っています。登城口から入ると枡形虎口(右上写真)があり、三の丸、二の丸、本丸間は高い切岸(右中、遠景写真)で防御されています。また、土橋を経由し見晴台(下中写真)があり、尾根は二重に堀切(左下写真)があります。コンパクトながら、興味ある詰城です。これらいくつかは美濃金山城主 森氏に滅ぼされた後に美濃金山城の支城として改修されたと考えられるそうです。
午後から「考古学からみた美濃金山城」の講演会(右下写真)に参加しました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-22)
今日は小牧山城跡に行って来ました。
第4区発掘調査の現地公開です。(11月22日~24日)
指定された小牧市役所に駐車し、小牧稲荷神社を経由し15分程で調査現場に到着しました。主郭の南側の帯曲輪022,023が(右上、中、下写真)でした。石垣、裏込め石、礎石、玉石敷、排水路が検出されており建物があったとのことでした。瓦は見つかっておらず、板葺き、茅葺きであったそうです。
前回の攻城時には修復中であった主郭北側の段築石垣(下中写真)、主郭西南側の石垣(左上写真)は修復されており、素晴らしい眺めでした。主郭の南側の石垣は修復の最中でした。
信長は小牧山城には4年しかいなかったそうですが、先日、攻城した岐阜城(稲葉山城)と規模の違いは明らかでした。なお、今回の公開現場は来年には埋め戻されるそうです。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-20)
昨日の岐阜城の続きです。
七曲り(右上写真)からの登城です。40分程で一の門(右中写真)に到着。門の付近には巨石が転がっていました。次に二の門手前の斉藤氏時代の石垣(右下写真)と信長時代の石垣(下中写真)と見比べが出来るのは嬉しい。残念ながら、目的の天守南西部の信長時代の石垣、天守東側の石垣等は確認出来ませんでした。(埋め戻されていたり、シートで保護されていて)
昨日は岐阜市歴史博物館で開催されている「天下統一」(左下写真)の最終日でした。歴代城主、ゆかりの武将の紹介、「信長公記」(判りやすい字体でした)など見ごたえがありました。
遠景は寒いなか、観光客で賑わう天守付近です。皆さん、ほとんど、ロープウェイ利用。観光資源と国史跡の保存、バランスは難しいですね。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-19)
今日は岐阜城に行って来ました。特に信長の居館を見て廻りました。
左右を菊人形で飾られた冠木門(右上写真)から入りました。待っていたのは巨石に囲まれた枡形虎口のような通路(右中写真)です。さらに進むと巨石(保護のためシートがかけられています)を背景にした庭園です。池の中央に景石を配置(下中写真)した立派なものです。この池を眺める位置に金色の建物があったらしいです。別の池には岩盤(左下写真)上を滝が流れていたそうです。(右下写真)は斉藤氏時代の石垣と階段です。
遠景は居館の全体です。8つの庭園があり、うち5つには池があったそうです。信長は此処から七曲りを通り、天守に登城したそうです。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-07)
先日、甲賀に行った時に和田城館群にも寄って来ました。
JR草津線の甲賀忍者屋敷のような油日駅前(遠景写真)にある説明板(右上写真)を読み、和田谷の丘陵地にある中心的な和田城跡に向かいました。駐車場前にある和田城館群についての説明(右中写真)を見て、登城口(左下写真)から入りました。草木が伐採された腰曲輪(下中写真)を通り、高い土塁にある虎口(右下写真)を通過し、一辺が50mある方形の主郭に到着しました。甲賀地方の特徴の高い(7m)土塁、堀切に囲まれた土の城です。次回は後の15代将軍 足利義明が滞在したと言われる他の城跡も訪れてみたいと思います。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-05)
昨日は観音寺城の支城の1つだった箕作山城跡に行きました。
観音寺城と東山道を挟んだ箕作山(清水山)にあります。貴船神社の麓にある階段(右上写真)から攻城です。登山道がたいへん整備されています(右中写真)。40分程で箕作城跡の石碑(右下写真)に着きました。石碑の土台となっているのは破却された石垣でしょうか。さらに200m程歩くと北箕作山の主郭と思われる場所(左下写真)に到着しました。今は鉄塔がたっています。箕作山の戦いでは信長の合戦では最大の犠牲者を出したそうですが、この戦いにより信長は上洛を果たしたそうです。遠景は六角氏の観音寺城のあるサキガケ山です。その時代の歴史を妄想しました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-04)
今日は湖南地域にある佐生(さそう)城跡に行って来ました。
観音寺城のあるキヌガサ山の北方先端尾根にあります。共同墓地(下右写真)の登城口から10分程で主郭と思われる場所(下左写真)に到着しました。登山道が整備されています。主郭には「後藤但馬守城跡」の石碑がありました。また、主郭南側には立派な石垣(下中写真)があり、主郭入口の石垣(右上、右中写真)も残っていました。観音寺城の支城かどうかはわかりませんが、突然の素晴らしい石垣出現にびっくりしました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-11-03)
今日は甲賀郡中惣遺跡群に行って来ました。国史跡に指定されている寺前城跡・村雨城跡(下中写真)、竹中城跡(左下写真、)新宮城跡(右上写真)・新宮支城跡(右中写真)です。
新治集落にある丘陵に築かれた城郭です。竹中城跡は単郭方形の土塁に囲まれた城郭ですか、新宮城跡や寺前城跡は主郭、副郭の縄張りになっていました。また、新宮城跡と新宮支城跡、寺前城跡と村雨城跡は連郭城郭の構造となっていました。(左上写真)は新宮支城跡の堀底から10mもある迫力のある土塁です。(右下写真)は新宮城跡にある枡形虎口です。
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なべさん の読者投稿欄「あなたが初めて訪問したお城はどこですか 」への回答が更新されました(2023-11-01)
私が城跡巡りのきっかけになったのは岐阜県中津川市にある【苗木城】です。退職後、健康維持のために近場の山歩きに出かけていました。その時に出会ったのが苗木城でした。
いままでのお城のイメージをがらりと変えてくれました。巨石の岩山(高森山)に築かれた懸造りのお城の魅力にハマりました。展望台からの360度パノラマからは麓を流れる木曽川、市街地、恵那山をはじめとする山々が見渡せます。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-27)
今日は鵜沼宿にある旧大垣城の鉄門(くろがねもん)(左上写真)を見に行って来ました。
鵜沼宿は中山道69宿の52番目の江戸時代尾張藩領にあった宿場です。なぜ、大垣城の表門が鵜沼宿にあるのか不思議でした。説明板(右下写真)を読むと明治9年に払い下げられ、各務原市蘇原の安積家の門として使われていたようです。そのため安積門と呼ばれています。各務原市に寄贈され、鵜沼宿の東口に設置されたようです。控柱の立派な切妻屋根の高麗門(右上写真)で鬼瓦には戸田家の九曜紋(右中写真)が入っています。表面は鉄板で覆われた高麗門で、現存するの同様の門は名古屋城と大阪城の2例だけだそうです。できれば、大垣城に移設して欲しい。復元された脇本陣(左下写真)と町長屋(下中写真)です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-21)
今日は鎌刃城跡に行って来ました。
あいにくの曇り空です。時々、小雨。
ゲート42が登城口です。北西の尾根づたいに整備された登山道です。北Ⅵ曲輪手前の大堀切から大石垣を廻り、北Ⅴ曲輪に到着しました。見事な枡形虎口(右上写真)がありました。北西尾根の7つの曲輪を通り、枡形虎口(左下写真)を経由し、石柱碑のある主郭に到着しました。副主郭の南曲輪Ⅱは立派な土塁(右下写真)で囲まれ、さらに大きな堀切(下中写真)があり、この先の尾根には7つもの堀切があり、極めて防御を高めています。
遠景写真は北Ⅵ郭の大櫓から伊吹山(木で隠れています)、横山城、小谷城、東山道が見渡せます。西側からは琵琶湖、佐和山、彦根城まで見渡せます。鎌刃城は交通の要衝にあり、北近江、南近江の境目。また、美濃、近江の境目の重要な拠点であることがよくわかりました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-20)
今日は長比(たけくらべ)城跡に行って来ました。
柏原駅から歩き、柏原宿の中山道を野瀬山(下中写真)に向かいました。途中、東山道の石碑(右上写真)の前を通り、神明神社付近の長比城跡登り口にある石碑(右下写真)から登りはじめました。よく整備された登山道で40分ほどで東曲輪(右中写真)に到着しました。その後、西曲輪に移動しましたが、その入口がすごい土塁で囲われた食違い虎口(左下写真)でした。西曲輪は高い土塁で囲まれ、すごい防御能力を感じました。遠景は中程遠くに見える三角山が小谷城のある小谷山だそうです。浅井氏が越前衆によって、織田軍による東山道侵攻を防ぐために築いた陣城の素晴らしさを体感しました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-19)
今日は山城ファンのきっかけとなった苗木城跡と広恵寺(こうえいじ)城跡に行って来ました。
14世紀初めに苗木遠山氏が入ったのが植苗木の城ヶ根山(右中写真は登城口)に築いた広恵寺城(右上写真は麓の記念碑)で約100年続いたようです。城郭内へは昨今の熊出没のため踏み込みませんでした。15世紀初めに高森山に苗木城(左下写真)を築き、移ったようです。(下中写真)は馬洗岩、(右下写真)は大矢倉。遠景は天守台から見た中津川市街地と木曽川、恵那山です。やはり、何度来てもいいですね。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-17)
今日は竹ヶ鼻城跡周辺に行って来ました。先人の足跡を参考に天正12年(1584)小牧・長久手の戦いにおける羽柴秀吉による10万の軍と竹ヶ鼻城の水攻めの跡を歩いて来ました。
資料館で教えていただいた地図に従い、20分ほどで羽柴秀吉が陣を構えた間島太閤山(左上写真、右上写真)に到着しました。3kmあったと云われる一夜堤ですが、石碑は今町交差点(右中写真)、羽島市斎場(左下写真写真)、市民会館付近(下中写真)、羽島郵便局付近(下右写真)の4ヶ所にありましたが、残念ながら堤らしい地形は感じられませんでした。約1万歩、1時間半の史跡歩きでしたが、水攻めの規模を体感することが出来ました。それにしても、竹ヶ鼻城の歴代城主は関城主になった長井道利、三木城主となった伊木忠次など、竹ヶ鼻城が重要な拠点であったのではないでしょうか。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-14)
今日は揖斐城跡に行って来ました。
美濃では好きな城跡で再攻城です。
三輪神社裏の案内板(右上写真)が登山口です。道はよく整備されています。しばらくして新しい貼り紙「熊の目撃情報あり」(右中写真)、こんなに人里近いところで、と半信半疑でいると前から来た中年女性がなんとその目撃者の方ではないですか!一ヶ月半前に親子連れの熊に遭遇したそうです。ゆっくり見て歩くつもりが、目的の枡形虎口(下左写真)、井戸跡(下中写真)、本丸の石柱碑(下右写真)を見て、早々に退散しました。遠景写真は太鼓曲輪から見た麓の街並みです。山城には熊はつきものですが、今年は異常ですね。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-10-09)
今日は一乗谷城跡に行って来ました。
「秋の一乗谷登山会」に参加です。
三万谷コースでの攻城、約30分で千畳敷跡手前の畝状竪堀(右中写真)に到着。さすが朝倉氏の城跡、100以上の畝状竪堀があるそうです。千畳敷跡には礎石(下中写真)があり、一段高い観音寺跡との間には土塁(下中写真)がありました。遠景(左上写真)は宿直(とのい)跡から朝一番で攻城した支城の槇山城跡方向です。途中、笏谷石の不動明王がある不動清水があります。最後には三の丸(右下写真)まで行き、朝倉氏の山城の大きさを堪能しました。帰りには一乗谷朝倉氏遺跡博物館に寄りました。
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なべさん の読者投稿欄「これまでに何度も訪問したことのあるお城はどこですか、理由も聞かせてください 」への回答が更新されました(2023-10-01)
私が何度も訪問したことのあるお城は犬山城です。自宅から近いこともあり、毎日美濃国から眺めています。元旦の早朝に行ったり、遠方の知人が来た時は観光地のひとつとしてお勧めしています。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-09-30)
今日は美濃金山城跡に行って来ました。昔は兼山城と呼んでいました。
出丸から二の丸の破城された西面石垣(右下写真)を見て、武者走りの石垣(左下写真)に驚き、本丸に20分ほどで到着しました。本丸御殿のあった場所に礎石(右中写真)があり、天守相当の瓦葺き建物があったと想定される場所(右上写真)からは兼山湊、街並みと木曽川がよく見えました。(左上写真)は麓の兼山小学校とその向こうに明智の庄が一望できます。帰りは大堀切り(下中写真)を眺めながら、可成寺の森一族の供養塔を訪れました。
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