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走る歴女です。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-26)

週中に急に福岡行きがきまり、昨日は古代山城の大野城、高橋紹運激闘の地・岩屋城などに寄って帰ってきました。
本当は水城も福岡城へも行きたかったのですが、大野城が広大すぎて、水城は山上から見ただけ、福岡城は夜の門あたりを見ただけです💦

大野城は、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、また攻めて来るかもしれないので、作られた防衛施設の一つです。
さすが国家プロジェクト、元祖天下普請?ってことで太宰府の北の山を丸ごと要塞にした感じですね。1000年以上前というのに石垣も土塁も礎石もしっかり残っていてしかも大規模でびっくりしました。
防人の歌って沢山残っているけど(この広さ、すごいたくさんの防人さん達がおったんやろうなあ)と思いました。築城などにもかかわっていたのかな。
あとはこういう(攻められるかもしれないっていう危機的状況が古代から城郭を発達させてきたんや〜)と妙に納得してしまいました。
古代山城も初めてでしたが、太宰府へ行くのも初めてで、すごい賑わいにびっくりしてしまいました。大河もあるし少しタイムリーなので、突然の遠征でしたが、楽しかったです☺️
写真は大野城の百間石垣。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-15)

今日は前から行きたかった滋賀県の男鬼入谷城に行ってきました。
男鬼入谷城は、2000年に発見された彦根の山間部にあるお城で、歴史は一切不明だけど、浅井氏との抗争で山間部に入って抵抗を続けた京極高広が築いたのでは?と言われているそうです。

(登城口前にある廃村がなんか怖いなあ〜)と思っていましたが、明るくておばあちゃんちの小屋みたいな雰囲気でした💦
麓で廃村の男鬼集落付近から全くスマホの電波が届かないところが、ちょっと不安にはなりますが、集落や神社に来られている方は平日なのにチラホラおられ、登城道は尾根上で迷うこともなく、適度に整備されている感じでした。
お城はとても山奥なのに堅固な作りで、尾根の先は複数の堀切で断ち切られていたり、その堀切の内側が一部石積みが施してあったりで、ホント潜伏だけのお城とは思えませんでした。(誰かに見せびらかさなくていい鎌刃城)という雰囲気です😅
ただ、書籍などで(見渡す限り周囲は山々)と書かれてありますが、もしかして伐採などがあったのか、主郭とされる曲輪からは南西方向の眺望があり、観音寺城などの城山や三上山などまでよく見えました。
なので(これは、京極氏?などのココの城主が、六角氏や浅井氏など湖南の動向を見れたはず)と思います。隠れ城じゃなく虎視眈々な城じゃないかなー?
お城もステキだし、登城口の比婆神社や、登城途中の剥き出しの石灰岩も良かったです。珍しい草花もたくさん見れました。
写真は山頂部曲輪南下のフォルムがかわいい二重堀切。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-11)

今日は飯田線に乗って新緑の車窓をのんびり楽しみ、静岡県の高根城、大洞若子城へ行ってきました。
豊橋駅の黒板で知ったのですが、飯田線の秘境駅は高根城の最寄り駅より長野県寄りにいくつかあるんですね。

先月井伊氏一門のお城を巡った流れで、奥山氏の高根城が気になって私も流れてきた訳ですが、高根城も大洞若子城も武田にガッツリ改修を受けたお城なんですね。とても見応えある堀切、高根城は復元建物もあるし、すごく良かったです!女城主直虎も思い出しました☺️ただ、2城のフォーメーションはとても類似しているので、原型は残っているかもしれないないですね。

南北朝時代、奥山氏次男の系統の奥山貞則は宗良親王の妻となった井伊道政の娘・駿河姫が安全に出産できるよう奥地の高根城に城を築き、後に結ばれます。そのことから次男の系統が奥山氏嫡流を凌ぐことにもなってしまったそうです。
高根城の落城は、武田・今川・徳川への帰属巡る内部騒乱による、と書いてあって(え〜そんなの残念)ってなりました。

飯田線は電車の本数も少ないので、お城をじっくり周り、塩の道を歩いたりして過ごしていましたが(時間まで天竜峡方面の電車に乗って秘境の駅を見てからギリギリで折り返して帰ったらどうかな?)と気づき、秘境の駅を見たり、降りたりして引き返し、帰ることができました。こういう事するのは初めてでしたが、面白かったです。
写真は大洞若子城の城山前を走る飯田線の列車。今日は撮り鉄?

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-08)

今日は5月なのに寒い、という天気予報だったので、
滋賀県の豊郷町などの城館が密集したエリアを爽やかに?ラン攻城してきました。最寄り駅を間違えて必要以上に走り回ってしまいましたが💦

ほぼ城趾碑しかないお城が多かったので、いつもより多くお城を回れたのですが、浅井氏家臣のものもあったけど、ほぼ六角氏家臣や一族のお城でした。
それらのお城の城主の来歴は、那須与一の弟とか、六角氏の分家で宇治川の合戦で先陣を切った強者とか‥なんだか誇り高い感じの城主が多くて面白く感じました。さすが代々近江守護を務めた家の家臣、なのかな。

信長は近江進出に際して、合戦以前から、六角氏の有力家臣たちに降服を勧告していたそうです。
六角父子は箕作山城が落城したのを聞くやいなや、観音寺城を退いて、甲賀山中へと逃亡しました。これは近江の京極道誉など古来からの近江の大名の常套手段だったけれど、支城の家臣にとっては捨て石になりたくないですよね💦
この報を聞いた六角氏の主な家臣達は、織田軍に降参し、各支城を明け渡すと共に、信長の軍門に下ったそうです。オセロの色が一気に変わるみたいですね。
そんな六角義賢も信長死後は秀吉の御伽衆となっているから、うまく生き残ったといえるのかもしれませんね。
写真は那須城近く(東洋一の小学校)と言われたヴォーリス建築の旧豊郷小学校です。ステキな建物で、結婚式がやってました☺️

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-05-04)

今日はリニューアルした名古屋市農業センターに行ってきました。動物と触れ合ったり、収穫体験をする所で、のんびり過ごしてました。
名古屋コーチンのパネル展示をボケーっと眺めていたら、名古屋城下地図が展示されていて(なんでなん?)名古屋コーチン産みの親の海部兄弟は元尾張藩士で、武家屋敷跡にあった彼等の住まいを記したものでした。

江戸時代は闘鶏用の鶏や愛玩用のチャボは飼われていたけれど、全国的には養鶏業がなかったそうです。そんな中、尾張藩は中下級武士の内職として養鶏をして卵や肉をうる(サムライ養鶏)が幕末、また職を失った元藩士によってもよくなされていたそうです。
海部兄弟らによって育種改良がなされ、紆余曲折あって全国に普及したの名古屋コーチン。その後外国種におされて絶滅寸前にまでなったこともあったそうですが、昔ながらの味を求めて復活をまた遂げたんだそうです。

私は数回しか名古屋コーチンを食べたことはないですが、好きな赤ワインと相性が良かったのを覚えています。愛知県攻城の際は召し上がってください☺️

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-28)

今日のような暑い日は涼しい山城へ行こう😅
玄蕃尾城と柴田軍の砦・行市山砦に行ってきました。
青天で新緑眩しい玄蕃尾城。広くて全方位に警戒を怠らない縄張りが見事ですね😭遺構もよく残っているしテンションが上がり過ぎてしまいました。
そのまま玄蕃尾城から幅広い軍道が続いているという行市山砦へ足を伸ばしました。
行市山砦は技巧的で遺構もよく残っていますが、小規模なもの。それよりも、賤ヶ岳合戦の城砦の中で最高所であることもあり、自軍も含め玄蕃尾城以外の全砦を眼下に置くことができるポジションで、絶景でした(最高の陣城の玄蕃尾城と最高ポジションの行市山砦があったんやね)
賤ヶ岳合戦は陣城(砦)合戦と言われますが、行市山砦から出撃した佐久間盛政は、羽柴軍の第一防衛ラインの東野山砦や堂木山砦を迂回して、第二防衛ラインの大岩山砦や岩崎山砦を攻撃しちゃってるんだ、というのが山上からよくわかりました。行き過ぎちゃった感もあるけれど、作戦的に優れていたのかもしれない。
柴田軍は第一防衛ラインの長浜城がうばわれている心もとなさの上に、秀吉の美濃大返し、前田利家の後退があって、結果的には皆様の知るところとなっていますが。
まだ東野山城など羽柴軍の砦の巡ってない砦があるので、また行きたいと思います。
写真は行市山砦からの眺望。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-26)

県庁に用事があったので名古屋城に寄ると、すっかり藤棚のフジが咲いていました。
藤棚の下を水堀沿いに歩いていくと、本丸搦手馬出しの修復工事の様子がよく見れます。また、工事についての案内板もあります(二之丸側にも案内板はありますが)
それによると、本丸搦手馬出しだけでも7つの大名に分配して石垣普請をさせてるとのこと。各大名の丁場を一箇所に限定させず、多くの曲輪などに散らばらせて(名古屋城の究極の縄張りを実感させる戦略)とか聞いたことがありますが、ホントかなあ😱バラバラに分配させられて効率悪くなかったのかな。
それはさておき、西之丸のナンジャモンジャの花もモシャモシャに咲いているし、サツキもキレイで、とってもフローラルな今の名古屋城です。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-25)

浜松八幡宮に行ってきました。
三方原合戦敗走の際、家康さんが潜んだというクスノキがあることは知っていて、行く前は
(浜松城まで、あとちょっとやん。お城まで早よ逃げたらいいのに)とか思ってたんですが😅
行ってみるとそのクスノキ(雲立ちのクス)の大きさやパワーにビックリしてしまいました。うちのご近所には熱田神宮があり、白蛇さんがいる大きなクスノキをよく眺めてるのですが、それ以上のサイズかもしれないです。

古くは源義家が参拝の際に、クスノキの下に旗を立てたという伝承から(御旗楠)と呼ばれていたそうです。
三方原合戦敗走時、家康は武田方の追っ手を逃れてクスノキの洞穴に身を潜め、難を逃れたと伝わっています。
その際、洞穴の中で武運を祈ると、クスノキから瑞雲が立ち昇り、浜松城へ導いたということです。
諸々鈍い私ですが、二股に分かれたところから、何かがみなぎっているような感じがしないでもない!良かったです☺️

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-23)

静岡県西部に行くことが多くなりそうで(ついでに静岡のお城を攻めれたら)と楽しんでいます☺️
井伊家の井伊谷城や三岳城、大平城は攻城済みなので、今日は一門の井平城や奥山館、奥山城などに行ってみました。
井平氏は、直虎の祖父、直宗の母の実家かつ妻の実家。奥山氏は井伊直政の母の実家かな。一門衆もたくさんいますが、井伊家の浮き沈みに伴ったりして一門衆も浮き沈みはありますね。

奥山城は山麓の方広寺(奥山氏建立)までしか行けませんが、方広寺の新緑のコケが曇天で美しかったです。奥山館跡も含め遺構はほとんど見れないので、奥山氏のお城は高根城に行ってみないとなぁ、と感じました☺️
井平城は本丸に民家があり、耕作地など改変されてそうではあるものの、城趾としても整備されています。今日は曇天ということもあり、下段の竹林部分の曲輪にはイノシシ(ウリ坊数頭付き)、シカ数頭がタケノコを食べてました。シカは逃げて行ったけど、イノシシには半分無視してくれたので、そこは遠巻きに見学😅
今回攻城していると(新城まで〇〇キロ)などの表示があり(あぁ、井伊領って三河国境なんやな)っていうのをすごく感じました。戦国時代、今川に寝返りを疑われがちな事にもちょっと合点がいきました。
井伊氏はその井戸から生まれた始まりや、後醍醐天皇の孫の外祖父の家系になった事、直虎?次郎法師?の存在や、直政が四天王になった事など、戦国時代まではファンタジーな感じもあり面白いですね。秋には龍潭寺へ行きたいな。
写真はコケと岩がステキな方広寺の山門前。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-16)

今日は静岡県の小長谷城、石神城に行ってきました。
小長谷城は俯瞰の絵図を見たことがあったのですが(ちょいワイルドな諏訪原城のダイジェスト版)という感じでとても良かったです。諏訪原城の二の曲輪の南東側馬出し群に似ていると思いました。

小長谷城は信玄の駿河侵攻に伴って武田方になったお城でした。
今の姿は、勝頼の時代に徳川が諏訪原城、犬居城と落としていくに従って武田の最前線になった姿とも、もしかしてその後徳川の最前線になった姿ともされるみたいです。
(丸馬出しに角馬出しが重ねてあり、めずらしい)とお城紹介にあったので、行く前から色々と考察してたんですが、行ってみると、(四角い河岸段丘に、丸馬出しをつけて、更に強固にするために馬出しを付けたけど、元の地形からあまり無理せずに角馬出しになりました)っていう感じ、敢えての角馬出しではなさそうな気がしました😅
石神城は石神城で横堀があったり、なかなか良い竪堀もあって、犬居城と似ているなあ、と感じました。面白かったです。
写真は小長谷城の角馬出し外側の堀です。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-15)

仕事の後、名古屋城に行ってきました。
ご近所の名古屋城なのに、サクラのいい時期に訪れていなくて、ちょっと後ろめたかったのですが、八重桜やツツジとのコラボを見れました。まもなくフジも咲きますね。

城宝館の展示は
(守山の御寺 大森寺の宝物)
というもので、尾張藩二代藩主光友公の生母、歓喜院(お尉)の菩提寺所蔵の美術品や資料を展示したものでした。正直、タイトルだけ見ると、食指が伸びなかったのですが、観てみると初代義直、光友のパーソナリティが垣間見えて、勝手な妄想も膨らみ、面白かったです。
義直の正室春姫には子供がなくて、二人の側室にそれぞれ男女の子供をもうけています。光友の母、お尉は尾張の瀬戸近くのおそらく百姓出身で(義直が鷹狩りに行った際、イノシシが乱入して、それを追っ払った女を女中として召し抱え、お手つきになった)という伝承があるんだそうです。解説に(伝承の域を出ないが、光友が偉丈夫であったことからあり得る話)と記されています(なんちゅうシンデレラストーリーやー💦)
徳川美術館へ行くと、義直のとても繊細で几帳面そうな書や絵画が展示してあるし、勤勉なイメージがあるので、そのギャップに驚きです。
光友は武術に意欲的であり、熱田神宮など名古屋市内の多くの寺社の創建や修復にたずさわっていて、文武両道だったとされます。また、愛知県東海市の方へ行くと海岸沿いに光友が海水浴したという御殿跡があったりして、色黒ワイルドなイメージを勝手に持っていまして😅
展示されていた生母の菩提寺に所蔵されている彼の描いた水墨画は、繊細ながらも一気に描いているようで大胆な感じでした☺️

お尉さんは光友出産後すぐに光友と離され、義直生母お亀の方とともに江戸屋敷へ。若くして亡くなられ、光友と会う事はなかったとされます。そのお尉さんの出生地近くに菩提寺があるというのも、ちょっとほっこりします。
また大森寺へいってみようかなー?と思いつつ帰りました。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-12)

今日はおばあちゃんが退院なのでその前に、伊勢関氏の正法寺山荘跡に行ってきました。行く機会を狙っていたスポットの一つです。そんなんばっかりですが😅

正法寺山荘は室町時代に北勢地帯一帯にかけて勢力を伸ばした、関氏の寺兼別荘で、後に信長の北勢侵攻に伴って城砦化されたものです。
詰城があったとされる山がある西以外の三方が川で守られ、地形的に優れてるし、土塁、石積みなどよくのこっています。(これは城砦化した際につくられたんかな?)という堀切もあります。伊勢亀山城攻城などとセットでおすすめです。
ここを築いた関盛貞が風流を愛する武将さんだったようで、連歌師宗長は幾度か訪れ、他にも文化人が訪れた記録が残っているようです。
広い山荘跡にはサクラの木がたくさんあり、現在はサクラの名所となっています。
散りはじめてはいますが、古城感と散るサクラが儚く、井戸跡、礎石跡もよく残っていて連歌会が今にもはじまりそう‥キュン死しそうでした。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-07)

昨日は10周年のイベントありがとうございました。お疲れ様でした。
今日はおばあちゃんの畑手伝いしてお見舞い(大したことない☺️)に行く前に(東海道石薬師宿の蒲桜)を見てきました。
源頼朝の異母弟範頼(蒲殿)が平氏追討の際、石薬師寺に戦勝祈願し、馬の鞭を土へ刺したところ芽吹いた、と言う伝説のサクラです。サクラの時に行ったのはたぶん初めてでした。
歌川広重の(五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠)に艶やかに描かれ、ゴッホの絵にもその浮世絵が取り入れられているんだそうです。

(けど、なんで義経なん‥?〜💦屋島にいる平家追討のタイミングだったら、義経は京都にとどまってそうだし、義経、悪いけどカンケーないんじゃ)やっぱり江戸時代、悲劇のヒーローの義経人気はすごくて(義経✖️サクラ)は萌える?映える?ネーミングだったのかな。
範頼も義経の陰に隠れてしまうけど、スポットライトを浴びてもいい活躍と、その後の悲劇があり、古いサクラが胸に刺さります。
広重の絵のように、蒲桜越しにちょっとだけ範頼の祠(蒲冠者範頼社)がみえます。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-05)

青春18きっぷのラスイチで湖西の清水山城に行ってきました。わたしの攻城マップでは全然赤いお城がないエリアです。
先週行った小谷城のガイドさんから伺っていたし、団員さんもおすすめされていただけあって見所がたくさんあり、よかったです☺️

近江源氏佐々木氏一族の惣領家だった越中氏の居城でしたが、六角氏の勢力が弱まると浅井氏についた為、運命を共にすることになっています💦
お城は西佐々木一族の詰城として、織田との戦いに備えた姿、と感じられます。浅井氏の手が入っていると考えられています。
主郭南側の竪堀群以外にも、南西尾根曲輪群の堀切はエグい程圧巻ですし、北西曲輪群の大堀切の両サイドに竪堀群があります。主郭に立つと琵琶湖が広く見渡せ、水陸両方の要衝だったんでしょうね。織田軍に水陸からの攻撃を受けたそうですが💧
登城口の公園管理事務所でパンフレットをいただいた時(クマが出るから気をつけて)と言われました。
クマ鈴をつけ、ホイッスルをメロディーにして吹いていたらすれ違った山菜取りの人?に笑われてしまい、恥ずかしかった〜😅
写真は主郭から見下ろした竪堀群と琵琶湖です。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-04)

暖冬と三月の寒さで春眠覚めやらぬソメイヨシノもボチボチ開花してきました。
今日はフリー切符で名鉄沿線サクラ✖️お城巡り(犬山城、岐阜城、吉田城、岡崎城)をしてきました。
犬山城は五分、岐阜城は山頂はソメイヨシノは一本だけみたい。吉田城、岡崎城は満開でした🌸

犬山城は木曽川沿いの遊歩道のサクラとお城なコラボもステキです。6.7日が犬山まつりだそうです。
岐阜城は昨日の雨で登山道が沢のようでしたが、ミヤマツツジがキレイでした。6日が道三まつりとのことです。
吉田城は本丸周辺の石垣が整備されてからは初めてだったので(おお!)と嬉しく思いました。
岡崎城に来ると、菅生川でお祭りもやっていてすごい人出。屋台もたくさんありました。
四つしか回れなかったですが、なんだか胸いっぱいになりました。
私はとりあえず行きたい順に行ってしまいましたが💦名鉄沿線は他に西尾城・清洲城・小牧山城などもあるし、駅近の山城もあります。駅からのアクセスなどにバスやロープウェイなどを使われるとフリー切符でもっとまわれるかもしれないですね☺️
写真は菅生川沿いのお祭りの様子。船が来たから見てみると船の名前が(二ノ丸)。ウケました☺️

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-04)

犬山城、まだ五分咲きですね。
でも昼間から飲みたくなる感じに気分を上げてくれます🌸

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-30)

今日は小谷城に行き、水の手や横掛けの道をガイドツアーで回ってきました。
小谷城は2度目です。
1度目は、浅井氏居館があった清水谷から谷を登って、二つの尾根にある曲輪群などをじっくり見学しました。
その時、清水谷奥で秀吉隊が小谷城攻めで京極丸まで攻め上がったとされる(水の手)の標柱を見ました。沢登りのような道で(険しそう、でも今度行く時はここから登りたい)と狙っていたんです。
ただ、水の手の標識と京極丸虎口まで、テキトーに直登することだったらサル=私でもできそうだけど、ちゃんとしたルートを登りたいと思い、ガイドツアーに参加しました。

ガイドさんによると、秀吉は三隊と後詰で京極丸へと攻めたそうで、水の手ルート、搦手、横掛け道と考えられているそうです。
そのうち今日は水の手ルートと横掛け道を通り、主要部の曲輪群も見学しました。
水の手ルートは沢登りと直登が多く大変ですが、途中いくつかの大きな井戸跡や水の手を監視する曲輪を見ることができます。また、横掛け道からは大きな竪堀を三本見ることができました。三隊が集合した京極丸下の大野木屋敷下には切岸にかなり立派な石垣がありました。自分の頭の中のお城イメージ図が一歩詳細になりました☺️

ガイドさんからは小谷城攻めの色々な話、各遺構の説明もたくさん受けて、とても満足しました。詳しい参加者の方もおられました。
やー、山本山城の阿閉氏の寝返りからの信長さんのスピーディーさとか秀吉さんの的確さは神がかってますね。
いつも単騎攻城だし、マイペースすぎなんですが、ツアーもよいと思いました。
写真は京極丸虎口下の大野木屋敷跡の石垣です。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-24)

今日は用事が急になくなってしまったので、一昨年頂いていた城たびのパンフレットとスタンプラリーの台紙を入れて、青春18きっぷで丸岡城まで(朝の思いつき&弾丸)で行ってきました☺️
ちょうど一年前の今頃に福井城などに行ったのですが、敦賀までの新幹線開通で福井駅周遍もその時とはレベル違いの賑わいでした。16日開業のハピラインにも乗ってしまいました(青春18きっぷが使えなかったからだけど)

丸岡城天守は写真などで見るよりも、古めかしい感じで、どっしりした老武士のような感じ、渋くステキでした。さくら祭りが始まっていましたが、まだまだ蕾も膨らんでいません。渋✖️華を見たかったです🌸
天守は1620年➕αの築城で、その時代にしても古風な望楼型だったとされますが(石落としとか狭間はあるけど、真っ直ぐな階段が直通してて、なんか平和な時代感もあるなあ)と感じました。
中に入るとサイズから隅櫓感がありますが、急峻な階段や破風の中に入って、懸魚や石の瓦が見れたりと、見どころも多いですね。朝までは雨が降っていたのか、笏谷石も青みを帯びていました。
(一筆啓上‥手紙の館)には泣かされ、その場で誰かに手紙を書こうかとも思っちゃいましたが、スタンプラリーも楽しめました。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-22)

今日はおばあちゃんの畑を手伝った後、東海道を桑名宿まで走りつつ、未攻城なお城などに寄ってきました。サクラの蕾も膨らんで開花が近づいてますね🌸

攻城したお城は街中で残っている遺構も少なく、織田信長の北勢侵攻で降伏したお城ばかり。柿城の近くの縄生城(未登録)城主が、侵攻前に近くの神社に(身の安全祈願)と寄進をした事が残っているそうで、ちょっと切なくなりました💧
東海道を走るのは案内板や史跡が多くとても楽しいです。オランダ商館長の江戸幕府行きに随行したシーボルトも、出島から四日市港に船で着き、そこから東海道を進んだそうで、諸所の様子を記録していることが、途中の案内板にありました。ちょうど今頃の3/28に通られ、雪を被った御在所岳や鎌ヶ岳を眺めたとのことでしたが、今日も雪被ってました☺️
あと、刀剣については全くの無知で知らなかったのですが、桑名の矢田城址の麓に妖刀村正の村正屋敷跡がありました。
矢田城址は走井山公園にあって(きっと麓に走るようにドバドバ水がでる井戸があったんやろな〜)と城メモを読んだときに想像していたのですが、やはり豊富な地下水や砂が取れ刀造りに適している地域であったと考えられているとのことでした。
写真は矢田城址の横を走るナローゲージの三岐鉄道北勢線。右手が村正屋敷跡になります。凄まじい切れ味の刀が造られてたとは思えないのんびり風景です。

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ぐこさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-18)

今日は滋賀に攻城に行きましたが、強風の様相💦
ちょっと変更して彦根市の山崎山城、日夏城、荒神山城に行ってきました(山崎山城以外は未登録)
どれも元は六角氏系のお城ですが、山崎山城城主・山崎氏は織田の近江侵攻により織田傘下になっています。下街道もお城で曲がって安土城の北の抑えポジションを担い、石垣造りだったようです。運命も安土城と共になってしまったようです。
堀切の底から城塁の西側に回ると、裏込め石がびっしりでした。八幡山城?彦根城?などに大きい石材が持ち出されたとされますが、結構高い石垣があったんじゃないかと思えました。街道から見てカッコよかっただろうな。

日夏城は書籍などでは遺構が薄いとのことでしたが、六角氏のお城っぽさがあり、北と西の天然の切岸が鋭く、なかなかよかったです。
荒神山城は神社や古墳の石垣が混在しているし、城域もよく分からない感じでしたが、神社周辺の石垣や琵琶湖の眺望はとてもよかったです。
荒神山神社の由緒記には(井伊氏の崇敬厚く、二回の大阪の陣では境内の竹を旗竿に用い、直政は荒神山に築城も考えていた)と書かれていました。(直政さんが長生きされてたら、もしかしたらこちらも第二の彦根城になってたのかもね〜)と思い見上げてみました。
低山ハイクとはいえ湖岸だから、強風でマフラーが吹き飛ばされてしまいました💦兄弟からもらった、登山用のものなのでガッカリやし、首が長いのでそのあと寒かったです。
写真は日夏城の喰い違い竪堀です。

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今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

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