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斎藤道三と高政の関係が怪しくなっていた頃、信濃は武田信玄の手に落ちようとしていた
明智光秀が斎藤家に仕えていた頃、美濃から東にある信濃・甲斐では武田信玄の勢力が拡大しつつありました。信玄が越後の上杉謙信と戦った「川中島の戦い」のうち山本勘助らが討死したのは四度目(=永禄4年)で、これは「桶狭間の戦い(永禄3年)」の翌年に起きています。
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斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた
明智光秀が主君・斎藤道三と学友・高政の間で板挟みになっていた頃、関東地方では北条氏の勢力が一気に拡大しようとしていました。
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明智光秀が京都から東海各地をウロウロしていた頃、東北では内戦が終わろうとしていた
明智光秀が美濃にいた頃、東北地方では伊達家の内乱がちょうど収束した頃でした。
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【戦国合戦こぼれ話】「本能寺の変」で織田政権が瓦解した真の理由
「本能寺の変」の謎は明智光秀の犯行動機よりも、なぜ信長と信忠が同時にわずかな兵で京に滞在していたかですよね。まあだからこそ光秀は千載一遇の好機と見たわけでしょうけど。