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斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた

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前回の東北に続いて、今回は「麒麟がくる」前半の時期の関東地方について紹介する。関東は光秀らが活躍していた東海地方とも近く、なによりもある大名を通して光秀や信長らの運命と深く関わってくる。その辺りを掘り下げてみたい。

関東では北条氏の時代がはじまろうとしていた

「麒麟がくる」の物語が始まる直前の1546年(天文15年)、関東では大事件が起きている。いわゆる「河越夜戦」だ。
そもそも戦国時代の関東地方は他地域と比べても激しく諸勢力が入り乱れて争っていた。東北から関東にかけてのトップである鎌倉公方の座をめぐって争う、堀越公方と古河公方の両家(どちらも足利将軍家の分家)、鎌倉公方を補佐して実権を掌握してきた関東管領の一族、山内上杉と扇谷上杉の両家、これらの争いの中に新勢力として殴り込んできたのが北条家で、伊豆の堀越公方を倒してから関東へ着実に勢力を伸ばしてきた、というのが大まかな状況だ。

さて、武蔵の河越城は扇谷上杉氏の本拠地であったが、北条氏に奪われ関東侵略の前線基地になっていた。
これに対して山内・扇谷の両上杉氏と古河公方、そして関東の武士たちが連合を組み、未曾有の大軍をもって河越城を包囲したのだ。河越城の、ひいては北条の命運もここまでかと思われたが、父の急死で当主の座をついたばかりの北条氏康は僅かな兵で援軍に駆けつけるや、城を取り囲む敵軍を夜襲によって散々に打ち破ってしまった。
扇谷上杉氏はこの時に滅亡している。

この戦いの結果、関東のパワーバランスは完全に北条氏へ傾くことになった。
美濃で斎藤道三と高政親子の関係が悪化して光秀がやきもきしていた1554年(天文23年)の頃には、山内上杉氏の当主・上杉憲政は関東を追われて北陸へ逃げ込んだあとだし(1552年(天文21年)のこと)、古河公方の足利晴氏も古河城を攻められ、幽閉の憂き目にあっている(これが1554年(天文23年))。まだまだ関東には佐竹氏のような強敵もいたが、北条氏の優勢は変わらないように見えた。

また、1554年(天文23年)には別の大きな出来事も発生している。
甲斐の武田、駿河の今川、そして北条の三家が同盟を結んだのだ。この結果、今川氏は北と東を警戒しなくていいようになり、西に向かって勢力を拡大する。そう、三河と尾張である。
第20回と21回で描かれた1560年(永禄3年)の今川氏による尾張進攻とそのあっけない終わりーーすなわち「桶狭間の戦い」は、このような政治的な動きと連動して起きた事件とも言えるのだ。

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