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【10大戦国大名の実力】北条家⑥――北条家は減亡を回避できたか?
歴史のIFを考えるのは楽しいものですが、北条家が秀吉に勝つ、あるいは豊臣大名として生き残るという道筋はなかなかむずかしいものがあるなと思います。逆に言うと家臣団を再整理したかった徳川家はともかく、上杉家は加増があったとはいえよく会津への国替えを受け入れましたよね。
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小田原評定にネガティブなイメージが植え付けられたのは江戸時代の書物によるものですし、小田原征伐後も北条家は滅亡することなくその血筋を江戸時代に残したのにそう思われていないことなど、北条家に対するネガキャンはちょっとひどいものがありますね。
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【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代
上杉謙信を退け、武田信玄・今川義元との同盟を実現した3代・北条氏康は武力・政治ともに最高クラスのスーパー大名ですが、汁かけ飯の話など嫡子・氏政とのやり取りのエピソードが多数残っていますね。
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北条早雲は自らそう名乗ったことはない、というのは知ってましたし、氏綱が関東を治めるのに「北条」ブランドを利用しようとしたことも理解できますが、なぜ先祖にさかのぼって早雲まで北条で呼ぶようになったのか、の経緯はちょっと気になります。 この同じ名字(姓)を使って正統後継者を演出する方法論は琉球国での第一尚氏、第二尚氏の関係でも見られますね。
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初代・早雲が伊豆そして相模に進出することができた背景には鎌倉公方と関東管領の対立、さらに鎌倉公方と室町幕府の対立がありました。近年では早雲の伊豆討入りは、中央(京)の明応の政変で将軍に就任した義遐(義澄)が母と弟の敵討ちを命じたからだとされています。
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【10大戦国大名の実力】北条家①――築き上げた組織力がもたらしたもの
北条早雲が素浪人だったという説は現在ではほぼ否定されていますが、それなりの家格でないと姉が今川家に嫁入りできないという観点からの検証だったというのはおもしろいですね。 もっとも彼がエリート官僚であれ、戦国大名としてのし上がったのは十分下剋上だと思いますが。
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