マニアックな話ではありますが、「石垣」と「石塁」は厳密にはちがうそうです。
内部に土がなく、たんに石だけを積み上げたものを石塁と呼んでいます。 石塁は元寇の際に、博多湾沿岸に「石築地(いしついじ)」あるいは「元寇防塁(げんこうぼうるい)」と呼ばれる長大な石塁が構築されたのがはじまりで、当時の石塁はいまでも博多市の数カ所で見ることができます。
石塁の弱点は高く積み上げられない点にあります。 そのため、まず盛り土をして、その外側を石で覆うような石垣が生まれるわけですが、ようは「土塁」を石で強固にしたものが石垣ということですね。
(石垣には土塁や曲輪の崩落防止と、傾斜をより急にできるという効果があります)
石垣は石垣で水はけが悪くなるという問題があります。石垣内部に泥水が入ることで、ゆるみが生じて崩れやすくなるからです。そのため排水処理については石垣の裏側に「裏込石(栗石)」と呼ばれる小石を積み込んだり、「樋(とい)」をつくるなど、さまざまな工夫がしてあります。
また近年、史跡などとして整備されている城郭の石垣では、内側からの圧力により石垣が外側に膨らむ「孕み(はらみ)」という問題も起こっています。
この原因として、石垣の近くに植えられた樹木の根が押し出していることなどがあるそうですが、じっさい2011年の東日本大震災の際に仙台城や白河小峰城の石垣が崩落したのは、地震の影響だけではなくこの孕みも原因になっていたそうです。
(とはいえ、城址や史跡公園の木々を安易に伐採することもむずかしいので、なかなか困難な問題ですね)
中世の城郭においても2メートル程度の曲輪の「仕切り(崩落防止目的でもある)」としての石垣はありましたが、天守台などに用いる城石垣としてはじめて石垣が用いられた城は、観音寺城とも小牧山城ともいわれています。
以前は織田信長が上洛の際(1568年、永禄11年)に、六角氏の観音寺城を落とした際に穴太衆が築いた石垣を見て、その後は自身の城においても石垣を用いたという話でした。
(穴太衆は信長に雇傭されて安土城の石垣を積んだとされています)
一方で2010年に小牧市で行われた小牧山城の発掘調査では、小牧山山頂に精巧に築かれた石垣が確認されており、信長はもっと早く城に石垣を用いていたという可能性が出てきました。
調査はまだ継続されているので、これから新たにわかる事実も出てくるんでしょうね。
また石垣に用いられるのは花崗岩(かこうがん)が多く、そのため東日本の城ではほとんど石垣はありません。 とくに関東地方では小田原城や甲府城、江戸城くらいで、これは石垣の材料となる花崗岩の産地が限られていたためです(あとは財力の問題もありますね)。
なお沖縄(琉球)の城(グスク)では石垣に琉球石灰岩が使用されています。
天守が残っているお城は少ないんですが、石垣は多くの城で現存している遺構なので、いろいろ勉強してもっと深く味わえるようになりたいなと思っています。
toproadさんが城がたり「よくわかる小牧山城」を企画してくれました。愛知県小牧市と調整してくださり、学芸員の方にZoomで話していただけることになりました。小牧山城の歴史、発掘調査の成果など、いろんな話が聞けると思いますのでぜひご参加ください。
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