大久保家は大久保昌忠が松平家の3代・信光に臣従したときから徳川家の譜代となった、いわば古参中の古参である。
初代・忠世は家康とその父・広忠に仕え、「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」で戦功を立てた。小田原攻めが終わり、家康が江戸城を居城としたとき、大久保家は西の防衛拠点である相模国小田原藩4万5千石を与えられている。小田原は後に箱根の関所が置かれるなど、交通の要所でもあった。
2代・忠隣は将軍家の家老となり、武蔵国羽生に2万石を与えられ、家康の三男・秀忠に仕える。当然、次期将軍には秀忠を推挙した。
そのため、忠隣は同じく幕府の重臣である本多正信と激しく対立する。正信は2代将軍に次男の結城秀康を推挙していた。また、「関ヶ原の戦い」で秀忠が信濃国上田城を攻撃した際、忠隣の家臣が抜け駆けをしたとして、正信がその家臣を処罰したという件もあったという。
さらに1613年(慶長18年)、大久保長安事件が起こる。長安は忠隣の家臣で、鉱山奉行として幕府の財政を強化する一方、不正な経理を行なって私腹を肥やしていた。これが発覚し、長安の家は全財産を没収されたが、この事件に関して忠隣が謀反を企んでいると正信が家康に讒言したのである。
秀忠が将軍になったことで、忠隣は老中に任命され、幕府で権勢を振るっていた。しかし、正信の讒言を信じた家康によって、大久保家は突然所領を没収され、改易されてしまったのである。
大久保家の家督は忠隣の嫡男・忠常の子の忠職が相続した。忠職に与えられたのは父・忠常が所領としていた武蔵国私市藩2万石のみで、家督を継いだ後も蟄居を命じられていた。1625年(寛永2年)、蟄居を解かれ、3代将軍・家光に仕えることとなる。忠職は江戸城の修繕などの普請事業を誠実に果たし、3万石を加増されて美濃国加納藩へ転封された。さらに播磨国明石藩、肥前国唐津藩と転封をくり返し、そのたびに加増を受けて大久保家の石高は8万3千石に達した。
5代・忠朝も老中に任命され、下総国佐倉藩へ転封される。後に1万石の加増を2度受け、忠隣の改易以来、実に72年ぶりに小田原藩に戻った。その後、大久保家の石高は11万3千石となる。
大久保家は老中を輩出する家格となり、6代・忠増も老中となった。しかし、彼の代には小田原地震と富士山噴火という未曾有の災害が立て続けに起こり、小田原藩は甚大な被害を受ける。10代・忠顕の代にはまたもや大地震が襲い、小田原城が破壊されるという事態にまで至った。さらに記録的な冷夏で米の作柄が悪化し、御厨一揆や城下での打ち壊しなどの騒動が頻発してしまう。このような状況にもかかわらず大久保家の歴代当主は、明確な対策を打ち出せず、「倹約に励むように」と通達するばかりだった。
11代・忠真の治世になって、ようやく大久保家は藩政を改革する。忠真は38歳で老中になり、行き詰まっていた幕府と小田原藩の財政をともに立て直そうとした。幕政では米価の調整や二毛作の奨励、藩政では荒廃した農村を復興させ、二宮金次郎(農学者。農地や農法の改革を進め、荒廃した田畑を各地で復興させた。日光の天領を復興させた実績もある)を登用するなど、農政や殖産に新たな考え方を取り入れようとしていた。藩士の育成のため、藩校・集成館も創設したが、その成果を見ることなく、57歳で没した。
13代・忠礼は幕末の混乱期を迎え、幕府から箱根の関所の守備を命じられるが、新政府軍の到着とともに関所を明け渡し、尊王派に鞍替えした。
ところが、箱根の関所が林忠崇や伊庭八郎の率いる旧幕府の遊撃隊に襲撃されると、何を思ったのか、小田原藩の兵が新政府軍の軍監・中井範五郎らを殺害してしまう。小田原藩には新政府軍から追討部隊が派遣されるが、藩士の中垣斎宮が必死に新政府軍を説得して、どうにかことなきを得た。ただ、忠礼は責任を取って謹慎し、大久保家は3万8千石の減俸を受ける。
その後を継いだ14代・忠良は版籍奉還の後、小田原藩知事に任命されている。忠良はその後、病気を理由に隠居し、大久保家の家督は忠礼がふたたび相続した。忠礼には後に子爵位が授けられている。