板倉家の初代・重宗は幼い頃から2代将軍・秀忠のもとに仕えていた。1620年(元和6年)、父・勝重の後任として京都所司代に任命され、その後、加増や父の遺領を継ぐなどして板倉家を5万石の大名へと成長させる。
1654年(承応3年)、高齢から京都所司代を辞任し、2年後に下総国関宿藩5万石が与えられた。勝重と重宗は京都所司代時代、公正に訴訟を裁く手腕を高く評価されており、その記録をまとめた『板倉政要』の名は広く知られている。
3代・重常の代に板倉家は伊勢国亀山藩5万石へ転封さねる。さらに5代・重治の代には志摩国鳥羽藩へ転封となり、続く6代・勝澄の代に備中国松山藩に落ち着いた。
板倉家からはしばらく幕閣の要職に就く人物は出なかったが、12代・勝静(かつきよ)が1862年(文久2年)に老中に任命されている。勝静は井伊直弼による「安政の大獄」に異論を唱え、一時は寺社奉行を免職されていた。そこから返り咲いたわけだが、他の幕僚と対立することになり、2年後に罷免されている。ところが、翌年にふたたび老中に任命され、一橋慶喜が将軍職に就くと、献身的に補佐した。大政奉還に当たっては勝静が幕臣をなだめ、慶喜とともに二条城から退去している。
戊辰戦争の渦中で松山藩は岡山藩の管理下に置かれる。しかし1869年(明治2年)、13代・勝弼に対して、石高を2万石とした上で板倉家を相続させるとの恩命が下った。
松山藩は高梁藩に改められ、勝弼は版籍奉還を経て高梁藩知事に任命された。後に勝弼には子爵位も授けられている。