村上源氏の流れを汲み、室町幕府で大きな勢力を誇った赤松氏の支流で、摂津国有馬郡有馬荘の地頭になってこう名のった。摂津有馬氏、赤松有馬氏とも。戦国時代、羽柴(豊臣)秀吉が織田家の中国方面司令官として摂津・播磨へ進出した際にその家臣となった。
秀吉の死後、有馬豊氏は徳川家康の養女を正室に迎えるなど徳川家に接近し、関ヶ原の戦いでも東軍に参加した。その後も大坂の陣へ従軍するなど幕府のために功績をあげ、筑後藩・田中家が断絶した後に、筑後国久留米21万石を与えられている。
藩政の初期には、田中家時代から行われていた工事を引き継ぎ、筑後川の治水・水利工事を推進している。これによって筑後平野の灌漑が整えられ、大規模な新田が開拓された。
しかし、財政難もまたついて回り、代々の藩主が支出の削減に励んだ。特に6代・則維の改革は、同時期に新井自石によって行われていた幕政改革の名前を取って、久留米藩における「正徳の治」と呼ばれている。この改革は一定の成果をあげ、困窮する財政をいったんは安定化させた。しかし、則維はこうした名君としての側面を持つ一方で、派手好み・農民に対する過酷な政治・一部寵臣の重用といった良くない側面も兼ね合わせていた。
その後の藩主たちも財政問題を解決できなかった。8代・頼貴は上げ米や借金で急場をしのごうとする一方で、非常に派手好きかつ多趣味の人物であり、大変に相撲を好んで多数の力士を召抱えたり、犬好きが高じて日本全国どころか遠くオランダからまでも珍しい種類を輸入したり、と財政を圧迫した。彼の代には増上寺の火の番をたびたび務め、「有馬火消し」として江戸庶民の注目の的になったのだが、これもまた莫大な出費となった。
続く9代・頼徳の頃には財政難を宣言しなければならないほどの状態だったのだが、この人物もまた派手好みであり、広大な庭園をつくったりして財政を苦しめた。
幕末期には10代・頼永が大々的な倹約を始めとする藩政改革に取り組んだものの、わずか2年で病死。その後を異母弟の頼咸が継ぐと、藩内は尊王攘夷派と佐幕派に分かれて激しく対立するようになった。そうした中、12代将軍・家慶の養女との婚姻が決まっていた頼咸は佐幕的な態度を示したので、一部の尊王攘夷派は脱藩して独自の活動を始めた。そのうちの一人が、幕末の尊王攘夷主義者たちの中心人物で、禁門の変で戦死した真木和泉である。
しかし、戊辰戦争において久留米藩は新政府側に付き、箱館戦争まで長く戦いつづけている。また、明治維新後は過激な尊王攘夷論者たちが藩の実権をにぎるようになり、彼らは諸外国と親しく付き合っていこうとする新政府の方針に反発してクーデター未遂事件に参加してしまった。この犯人たちをかくまったのではないかという疑惑を持たれ、当時久留米知藩事を務めていた頼咸は謹慎に追い込まれている。