藩が成立した経緯
苗木藩は、1600年(慶長5年)に成立しました。以下はその経緯です。
- 遠山友政の入封: 遠山友政は飯羽間遠山氏の出身で、遠山直廉の死去により苗木遠山氏が後継者を失ったため、織田信長の命により祖父の遠山友勝が後を継ぎ、父の遠山友忠が苗木遠山氏を継ぎました。1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いで河尻秀長が西軍に与したため、戦後に所領を没収され、東軍に与して東濃の戦いで武功を挙げた遠山友政に1万500石が与えられて、苗木藩が立藩しました。
主な藩主とそのエピソード
遠山友政
- 初代藩主: 遠山友政(とおやま ともまさ)は苗木藩の初代藩主で、関ヶ原の戦いの功績で大名となりました。友政は織田信長と徳川家康との間で密接な関係を保ちながら生き抜き、1600年(慶長5年)に苗木城を奪還し、藩主となった。友政は大坂冬の陣と大坂夏の陣で武功を挙げ、1620年(元和5年)に苗木で死去しました。
遠山友将
- 第6代藩主: 遠山友将(とおやま ともまさ)は第6代藩主で、1732年(享保17年)に死去しました。友将の死去に伴い、旗本であった叔父の遠山友央(とおやま ともなか)が末期養子として家督を相続し、分知されていた500石を幕府に返上した結果、表高が1万21石となった。
遠山友禄
- 最後の藩主: 遠山友禄(とおやま ともよし)は苗木藩の最後の藩主で、幕末期には外様の小大名としては考えられない若年寄を二度務めました。明治維新期には大幅な藩政改革や廃仏毀釈などを進めました。友禄は平田国学(=平田篤胤が説いた復古神道)の影響を受け、領内で徹底した廃仏毀釈を実行し、1870年(明治3年)に神葬祭を導入しました。
藩の歴史や出来事
江戸時代初期
- 大坂の陣: 遠山友政は大坂冬の陣と大坂夏の陣で武功を挙げました。1615年(元和元年)に徳川幕府は裏木曽と呼ばれる付知村、川上村、加子母村の三か村(いずれも良材の産地)を直轄地として尾張藩領に移管しました。
江戸時代中期
- 領地の変更: 1732年(享保17年)に、苗木藩は下野村の内の500石を幕府に返上し、下野村の一部が公儀御領(天領)となりました。1745年(延享2年)には、四区分制が導入され、代官の管轄区域が変更されました。
江戸時代後期
- 藩政改革: 幕末には遠山友禄による藩政改革が行われました。従来の倹約令に加えて5種類の藩札発行による改革を図ったものの財政は破綻しました。
明治維新期
- 大政奉還と上京: 1867年(慶応3年)10月、徳川慶喜が大政奉還すると、岩村藩と同様に藩論が二分されましたが、最終的に藩主が上京することで意見が一致しました。1869年(明治2年)に遠山友禄は版籍奉還し、苗木藩知事に任じられました.
- 廃仏毀釈: 1870年(明治3年)に、平田国学の影響を受けた藩政改革の一環として、領内で徹底した廃仏毀釈が実行されました。神葬祭を導入し、仏教的なものを一掃しました。
藩の終わり
- 廃藩置県: 明治4年(1871年)の廃藩置県により、苗木藩は苗木県となり、のちに岐阜県に編入され、消滅しました。遠山友禄は華族として東京移住し、苗木藩の歴史は終焉を迎えました。