鈴岡城
鈴岡城

[長野県][信濃] 長野県飯田市駄科1729


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.21(--位)
  • 見学時間:32分(--位)
  • 攻城人数:122(863位)

案内板

案内板
砥石くずれ 砥石くずれ

大小いろいろな案内板が各所に設置されており、じっくりと城歩きができます。

   

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カメラ情報

機種名OLYMPUS IMAGING CORP. u7040,S7040
ISO64
F値3.0
ホワイトバランスマニュアル
シャッタースピード
レンズ焦点距離5.0 mm
フラッシュフラッシュ未発光、強制発光モード
露出モード自動露出
露出時間1/400
画像方向水平(標準)

文字起こし

長野県史跡 鈴岡城跡(すずおかじょうせき)
 昭和四六年五月二七日指定
 鈴岡城は、鈴岡小笠原家(すずおかおがさらわけ)の居城(きょじょう)です。段丘の突端に主郭(しゅかく)を置き、背後は「念通寺断層(ねんつうじだんそう)」により形成された段丘崖(だんきゅうがい)で守られています。台地続きの西側は、幾つもの堀(ほり)と郭(くるわ)で防御を固めています。特に、最大幅三〇mにもなる内堀(うちぼり)と、二郭(にのくるわ)を取り囲む外堀(そとぼり)は見事です。毛賀沢川(けがさわがわ)の対岸には松尾城(まつおじょう)が築かれています。
 鈴岡城の始まりは不明な点が多いのですが、南北時代(なんぼくじだい)に小笠原宗政(おがさわらむねまさ)が築いたとされます。十五世紀後半に政秀(まさひで)が在城してからは、伊賀良庄(いがらのしょう)と信濃守護職(しなのしゅごしょく)を巡り松尾小笠原家と争いました。明応(めいおう)二年(一四九三)と天文(てんぶん)二三年(一五五四)に、松尾小笠原家に攻められ落城しました。その後、天正一八年(一五九〇)に松尾城が廃城となるまでは、その支城となったともいわれます。
 平成二三年三月 長野県教育委員会・飯田市教育委員会

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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