鈴岡城
鈴岡城

[長野県][信濃] 長野県飯田市駄科1729


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.21(--位)
  • 見学時間:31分(--位)
  • 攻城人数:123(876位)

案内板

案内板
砥石くずれ 砥石くずれ

大小いろいろな案内板が各所に設置されており、じっくりと城歩きができます。

   

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カメラ情報

機種名OLYMPUS IMAGING CORP. u7040,S7040
ISO64
F値3.0
ホワイトバランスマニュアル
シャッタースピード
レンズ焦点距離5.0 mm
フラッシュフラッシュ未発光、強制発光モード
露出モード自動露出
露出時間1/400
画像方向水平(標準)

文字起こし

長野県史跡 鈴岡城跡(すずおかじょうせき)
 昭和四六年五月二七日指定
 鈴岡城は、鈴岡小笠原家(すずおかおがさらわけ)の居城(きょじょう)です。段丘の突端に主郭(しゅかく)を置き、背後は「念通寺断層(ねんつうじだんそう)」により形成された段丘崖(だんきゅうがい)で守られています。台地続きの西側は、幾つもの堀(ほり)と郭(くるわ)で防御を固めています。特に、最大幅三〇mにもなる内堀(うちぼり)と、二郭(にのくるわ)を取り囲む外堀(そとぼり)は見事です。毛賀沢川(けがさわがわ)の対岸には松尾城(まつおじょう)が築かれています。
 鈴岡城の始まりは不明な点が多いのですが、南北時代(なんぼくじだい)に小笠原宗政(おがさわらむねまさ)が築いたとされます。十五世紀後半に政秀(まさひで)が在城してからは、伊賀良庄(いがらのしょう)と信濃守護職(しなのしゅごしょく)を巡り松尾小笠原家と争いました。明応(めいおう)二年(一四九三)と天文(てんぶん)二三年(一五五四)に、松尾小笠原家に攻められ落城しました。その後、天正一八年(一五九〇)に松尾城が廃城となるまでは、その支城となったともいわれます。
 平成二三年三月 長野県教育委員会・飯田市教育委員会

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