馬ヶ岳城
馬ヶ岳城

[福岡県][豊前] 福岡県行橋市津積馬ヶ岳


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.25(--位)
  • 見学時間:1時間11分(--位)
  • 攻城人数:53(1835位)

馬ヶ岳城跡のパンフレット

行橋市教育委員会文化課によって作成された馬ヶ岳城跡の公式パンフレットです。

提供:行橋市教育委員会文化課
黒田氏の居城、馬ヶ岳城
 九州平定後の天正15年(1587)7月、秀吉から豊前6郡、約12万石を与えられた黒田官兵衛は最初、馬ヶ岳城を居城としました。官兵衛がこの城を居城とした理由は、古くからこの城が豊前支配の拠点であったことと、豊前南部に黒田氏の支配を不服とする宇都宮氏など地元勢力がまだ多くいたためだと考えられています。
 官兵衛と長政父子は馬ヶ岳城を拠点に、黒田氏に抵抗する地元勢力の平定を進めました。他国に出向き、たびたび城を離れた官兵衛に代わり、長政は度々馬ヶ岳城から出撃し、強敵宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)らと厳しい戦いを繰り返しながら、領内の抵抗勢力を鎮圧していきました。
 天正15年(1588)の末には、黒田氏と宇都宮氏が和睦(わぼく)し、豊前南部の情勢もようやく安定しました。おそらくこの頃、黒田氏は馬ヶ岳城から中津の地へと拠点を移したと考えられます。居城が中津城となった後も、馬ヶ岳城は支城として黒田氏の領内統治を支えました。
提供:行橋市教育委員会文化課
豊前の要衝、馬ヶ岳城
 馬ヶ岳城は、福岡県行橋市とみやこ町の境に聳(そび)える標高216mの馬ヶ岳と、その山麓に築かれた山城(やましろ)です。馬ヶ岳の由来は、二つの峰からなる山の形が神馬に似ていることによるといわれています。
 馬ヶ岳城は天慶(てんぎょう)5年(942)に源経基(つねもと)が築いたと伝えられ、新田(にった)氏など歴代城主の伝承が残されていますが、確かな記録から歴史がたどれるのは室町時代の応永12年(1405)からです。
 今に伝わる古文書からは、馬ヶ岳城が豊前地域の戦略上の重要地点で、さまざまな勢力の攻防の舞台であったことがわかります。とくに中国地方を拠点として大きな勢力をもった大内氏や毛利氏、豊後を拠点に北部九州に勢力を拡大した大友氏などが、豊前地域の支配をめぐってこの城の争奪戦を繰り返しました。

秀吉と馬ヶ岳城
 天正(てんしょう)14年(1586)、天下統一をめざす豊臣(羽柴)秀吉は、停戦命令に従わない島津(しまづ)氏の征討を決定し、黒田官兵衛を軍奉行とした部隊を九州に送りました。当時馬ヶ岳城主であった長野三郎左衛門が秀吉方に服属したことから、馬ヶ岳城は秀吉の勢力下に置かれました。 翌、天正15年(1587)には、秀吉自ら遠征軍を率いて3月28日に九州に上陸しました。「殿下(秀吉)が昨日、馬ヶ岳城に到着し、明日には秋月方面へ向かわれる」と記した官兵衛宛の書状が残っており、秀吉が3月29日に馬ヶ岳城に入り、2泊したことがわかります。秀吉は4月1日には岩石(がんじゃく)城を攻め落とし、秋月を経て島津氏攻略に向かいました。 同年5月には島津氏が降伏し、秀吉の九州平定は完了しました。
   

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