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石碑のみが立っています。
石垣たて積みは珍しいですね。
西側からの本丸登城口から撮影。青石がいい感じです。
案内板がある鉄道高架橋から撮影しました。
徳島城の鬼門(きもん)(北東)にあたる門が、旗櫓(はたやぐら)の下にあった数寄屋門です。別名「不明門」(ふみょうもん)とも呼ばれたように、城内の凶事(きょうじ)の際以外には開かれることのない門でした。 その数寄屋門の東側、堀に架け渡されていた橋が数寄屋橋です。長さ五間(けん)=約九・七五メートル、幅一間=約一・九五メートルの太鼓橋(たいこばし)でした。現在は、木製の橋が架けられており、往時(おうじ)をしのばせるものとなっています。 Sukiya Bridge Sukiya Gate also named “Fumyō-mon(Closed Gate)” used to be located under a storehouse for banner at the northeast corner of Tokushima Castle.This position was considered to be unlucky because it was opened only when something unlucky happened in the castle. Built over the moat to the east of Sukiya Gate was Old Sukiya Bridge an arched bridge about 9.75 meters long and 1.95 meters wide. There is now a new wooden bridge to remind us of the olden times.
殺風景ですが、全国でも珍しいそうです。
まだまだ戦乱を想定しているせいか、石垣が無骨ですね。
城山の南側から望みました。
西二の丸付近にあります。
徳島城鷲の門 徳島城(別名渭津城)は、天正十三年(一五八五年)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じ蜂須賀家が十四代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国二十五万七千八百石を支配した。 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門の名があると伝えられている。 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和二十年(一九四五年)七月四日早暁の徳島大空襲によって焼失した。 現在の鷲の門は、平成元年(一九八九年)九月二十七日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。 徳 島 市
蜂須賀家政公銅像 永禄元年(1558)~寛永15年(1638) 蜂須賀家政公(藩祖)は、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定の大功により阿波一国をたまわり、天正14年(1586)に一宮城(徳島市一宮町西丁)から中世に築造された渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。入国の後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、新しく製塩・製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。また、全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公(家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。それが昭和40年(1965)に裃姿の家政公の銅像に生まれ変わった。 ・台石/高さ2m、幅1.8m ・銅像/約2m ・竣工/昭和40年1月1日
高石垣になっています。もう少しきれいに整備すると迫力のある石垣を見ることができるのではないでしょうか?
西二の丸にありました。
フェンスの向こう側に材木櫓や平櫓がありました。現在は水道配水池があります。
徳島城を築いた蜂須賀家政公の銅像があります。
奥に大手門、左側は太鼓櫓です。
城内側から撮影。徳島城は縦向きの巨石をよく見かけます。
月見櫓跡には石碑のみがあります。
月見櫓跡石垣は徳島城の南東方向にあります。
横矢になっているのは屏風櫓跡です。
堀川の中央部に突き出した石垣の上に建つ櫓。戦の時は堀川を渡る敵を横から攻撃した。(徳島城パンフレットより)
左側が旗櫓、右側は隅櫓がありました。
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