お知らせ 詳細
本丸のある月山はもちろん、山中御殿も見渡す事ができます。
樹木が伐採され、遠くからでも遺構が分かる様になっています。
月山富田城を望む飯梨川の対岸に整備された三日月公園に建立された像です。
手前の千畳平の遥か先に本丸のある月山が見渡せ、広大な城跡であると実感する事ができました。
緑が刈られているので、下からも石垣を確認する事ができます。
屋敷跡は少し山道を登った先になります。
山中鹿介生誕地の一つとして伝わる場所です。
入口は閉まっていますが見学自由です。
新宮谷方面からの眺めです。道路手前まで馬乗馬場の腰曲輪が連なっています。
草木がないため、各曲輪群も遠くからでも良く見えます。
尼子興久公の墓所から続く散策路からの眺めです。本丸までは距離がありますが、攻城開始から次々と現れる遺構のおかげでそれほど苦にはなりませんでした。
道の駅裏手に建っています。興久は経久の三男で禄高の不足を訴えたことから追放され、天文三年(1534)妻の実家にあたる備後甲山城主山内大和守直通方に身を寄せ、そこで切腹しました。
道の駅裏手の散策路からの眺めです。左手に尼子神社が鎮座しています。
道の駅裏手の散策路は、両側の曲輪の高さに圧倒されながらのルートでした。
左手に見える散策路を右手に進むと千畳平、左手に進むと太鼓壇になります。
南北に広く細長い曲輪で視界も良好です。
右手が千畳平、左手が太鼓壇です。散策路が下に見えますが、板張りでとても歩きやすいです。
千畳平と呼ばれるだけあり広いですが、城内の他の曲輪も負けずに広い曲輪ばかりです。
尼子再興にゲリラ活動を展開した山中鹿介は上月城で捕縛後、一度脱走に成功している鹿介を警戒した毛利方により護送中の備中高梁で斬首されてしまいます。銅像は有名な「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈念する姿を現していますが、その月は富田川対岸の三笠山城山頂に架かる上弦の月だったと伝わっています。
当時の建物が復元されています。本丸へは建物の前の道を右手に降りて進むことになります。
花ノ壇から本丸へは、復元された建物の前を右手に降りて進むことになります。
花ノ壇から山中御殿の途中にある堀切です。
花ノ壇の下段の曲輪で、積み直された石垣で囲まれています。
本丸のある月山はもちろん、山中御殿も見渡す事ができます。
山中御殿前のトイレ前からの眺めです。こちらは当時のままの石垣です。
花ノ壇下段の積み直された石垣で囲まれた曲輪です。
当時のままの石垣が残されています。
当時のままの石垣が残されています。
広大な城跡内には井戸跡が多数点在しています。
月山軍用道右手の石垣です。月山軍用道は途中で七曲りに合流します。
月山軍用道は途中七曲りと合流します。
山中御殿平は月山山麓にある広大な曲輪で、周囲は石垣で囲まれています。三か所あるルートが合流するため、最も重要な場所でもあります。
埋門形式の城門で、一人しか通れないくらいの幅しかありません。
埋門形式の城門で、幅がとても狭くなっています。
城外からの眺めです。
とても見応えある高石垣です。
とても見応えある高石垣です。
見応えある高石垣です。
城外からの眺めです。立派な高石垣に圧倒されました。
石段を登ると最後の難関の噂の七曲りのはじまりです。
噂の七曲りは、山中御殿平まで比較的緩やかな道が続いた城内で唯一山城に来たと思わせてくれる場所でもあります。緑で覆われていますが足元はコンクリで固められていて安心です。日差しも浴びて最後の最後に汗だくになりました。途中にある曲輪の一部には休憩用のベンチも設置されています。
七曲りを登ると最初に現れる石垣です。
三ノ丸手前の北西側に広がる曲輪です。
西の袖平のある西側からの定番のアングルです。三ノ丸の石垣が一番良く見える場所だと思います。
休憩所の小屋の見える場所が二ノ丸です。
上からでは分かりにくいですが本丸と二ノ丸間は、幅約10m、深さ約8mの堀切によって分断されていました。
本丸と二ノ丸間は、幅約10m、深さ約8mの堀切により分断されています。二ノ丸側切岸は発掘調査により石垣が築かれていた事が判明しました。
本丸と二ノ丸間は幅約10m、深さ約8mの堀切によって分断されています。二ノ丸切岸は発掘調査により石垣で築かれていた事が判明しています。
本丸には山中鹿介幸盛記念碑と案内板の他、南端に富田八幡宮の奥宮である勝日高守神社が鎮座しています。太平洋戦争の際に高射砲陣地が設置されたため、改変されている可能性もあるそうです。
本丸跡に山中鹿介を偲んで建立されています。
本丸と二ノ丸間は幅約10m、深さ約8mの堀切によって分断されています。二ノ丸切岸は発掘調査により石垣で築かれていた事が判明しています。
本丸は東西150×南北20~30m程の細長い曲輪です。山中鹿介幸盛記念碑と案内板の他、南端に富田八幡宮の奥宮である勝日高守神社が鎮座しています。太平洋戦争の際に高射砲陣地が設置されたため、改変されている可能性もあるそうです。
本丸と二ノ丸間は幅約10m、深さ約8mの堀切によって分断されています。二ノ丸切岸は発掘調査により石垣で築かれていた事が判明しています。
山中御殿平北側の立派な高石垣です。大土塁方面に進むと現れます。
堀尾吉晴公の墓所である巌倉寺の高石垣は、城郭遺構にも負けないくらい圧巻です。
尼子の勇将山中鹿介と毛利方の品川大膳が一騎討ちを行い、鹿介が大膳の首をあげたと伝わる場所です。昔は富田川の中洲でしたが現在は住宅地となっています。
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