日谷城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
日谷城の盛衰
応仁・文明の大乱(1467〜77)の頃から、遠来の武将に対抗するため、地元の槍屋義久を首領として近郷の一向宗の農民達の手で日谷城(せいぜいが砦程度)が今の城山の頂上に築かれたと思われる。全国に2万余あったと言われる小さな山城の一つだった。 この地域の人々は、普段は麓の集落で生活し、山や田畑で生産活動を行っていた。但し、兵農分離策の前の時代であり、農民といえども相応の武器は携え、戦闘にも長けていた。 遠来の勢力は、北国街道や大聖寺城のある北側から来る可能性が大きい。城山の北側は峻厳で中腹に巨岩が横列に並び、攻略しにくい地形となっているのでこの山を選んだようだ。標高118メートル余の頂上に600平方メートルほどの平地を造成し本丸をおいた。10メートル下のわずかな平地に二の丸が配された。遺構に瓦や礎石の出土がないので、茅葺きの掘っ立て小屋であったと思われる、周囲に石垣が築かれた痕跡はない。この城を巡ってたびたび戦いが繰り返され死者も出たのではないだろうか。山裾にシンガタン(死ガ谷)という地名も残っている。城に籠もった以外の人々も、そのたびに麓の家を焼かれ、山奥に避難したとはいえ、死者が出るなど多くの被害を受けたであろう。 弘治元年(1555)には朝倉義景によって攻撃され、城に籠もる働き盛りの一揆衆が敗北し落城している。 慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍に任命され、この地方は前田利長の支配となった。一国一城令も浸透して金沢城以外は廃城となった。およそ150年程使われた日谷城も、今後二度と使われることはなく草木に埋もれた。平成二十六年九月吉日 三谷地区活性化推進協議会