新城城
新城城

[愛知県][三河] 愛知県新城市東入船


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.54(--位)
  • 見学時間:20分(--位)
  • 攻城人数:230(465位)

新城城跡の案内板

新城城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。

新城市指定文化財
(史跡)新城城跡
昭和33年4月1日指定
●所在地
新城市字西入船
●由来
 新城城は、長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌によって天正4年(1576)に建てられました。この城は、「しんしろ」という市名の由来になったとされる城跡です。ここが「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、長篠城に対しての新城(しんじょう)であったが、すでに天文元年(1532)に菅沼定継という殿様が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれており、それと区別するために「新城城」となったとも言われています。
 この城の中心地(本丸)は、堀と土塁(土を盛って造られた防御のための施設)で囲まれていた部分、現在の新城小学校の運動場の一帯があたります。現在、その堀と土塁の一部が残っています。
 初代城主であった奥平信昌は、天正18年(1590)に徳川家康が関東に移り住むようになると、あわせ上野国宮崎(現 群馬県富岡市)に移住しました。その後、何人かの城主の交代を経て、天保2年(1645)に新城城は廃城となりました。しかし、慶安元年(1648)に旗本の菅沼定実(野田城主の菅沼定盈が祖父にあたり、桜渕公園に桜の木を植え始めた人物)が陣屋をこの地に構えて以来、明治2年(1869)の廃藩置県までこの地を生活の場としていました。新城市教育委員会
   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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