新城城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
新城市指定文化財(史跡)新城城跡
昭和33年4月1日指定
●所在地
新城市字西入船
●由来
新城城は、長篠の戦いで戦功のあった奥平信昌によって天正4年(1576)に建てられました。この城は、「しんしろ」という市名の由来になったとされる城跡です。ここが「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、長篠城に対しての新城(しんじょう)であったが、すでに天文元年(1532)に菅沼定継という殿様が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれており、それと区別するために「新城城」となったとも言われています。
この城の中心地(本丸)は、堀と土塁(土を盛って造られた防御のための施設)で囲まれていた部分、現在の新城小学校の運動場の一帯があたります。現在、その堀と土塁の一部が残っています。
初代城主であった奥平信昌は、天正18年(1590)に徳川家康が関東に移り住むようになると、あわせ上野国宮崎(現 群馬県富岡市)に移住しました。その後、何人かの城主の交代を経て、天保2年(1645)に新城城は廃城となりました。しかし、慶安元年(1648)に旗本の菅沼定実(野田城主の菅沼定盈が祖父にあたり、桜渕公園に桜の木を植え始めた人物)が陣屋をこの地に構えて以来、明治2年(1869)の廃藩置県までこの地を生活の場としていました。新城市教育委員会