伊奈城に設置されている案内板の内容を紹介します。
伊奈城概説
十五世紀の中頃本多定忠(さだただ)・定助(さだすけ)の築城で、上嶋(かみしま)城ともいわれていた。天正十八年(一五九〇)本多康俊(やすとし)が、下総(しもうさ)国(千葉県)小篠(こざき)へ移封(いほう)されるまでの百数十年間伊奈本多氏の居城であった。
伊奈城主の菩提寺東漸寺(とうぜんじ)に伝わる古図によると、三方を河川と沼地に囲まれた要害堅固な地に加えて、城下まで舟運の便の良い地であった。
永禄年間に大塚城主の岩瀬氏に攻められたが、時の城主本多忠俊(ただとし)は兵を柳堤(やなぎつづみ)に出して防ぎ、御馬(おんま)・梅藪(うめやぶ)に出て戦いこれを退けた。伊奈城の攻防はこの一戦だけである。
下総国小篠へ移封後は廃城となり、それ以来四百年余りを経た現在も土塁の一部と本丸の郭(くるわ)跡が残っている。特に土塁は室町時代の地方の平城(ひらじろ)跡を今に伝える数少ない貴重な遺構である。
伊奈本多氏は遠州今川方と三河松平方の境に位置し、ある時は今川方にまたある時は松平方に従い、戦国時代を生き抜いてきた。伊奈本多氏略系譜
遠祖藤原鎌足――(二十三代略)――中務(なかつかさ)光秀〔京都加茂神社社職(しゃしき)〕――助秀〔豊後(ぶんご)国(大分県)本田郷に移り本田氏とす。後本多と改める。〕――助秀〔足利尊氏の上洛に従い功労により、尾張の横根郷(大府市)粟飯原(あいはら)郷(名古屋市)を与えられる。〕――(二代略)――定忠(伊奈郷に移る)
初代 本多定忠 二代 本多定助 伊奈築城(十五世紀頃) 三代 本多正時(泰次)(やすつぐ) 松平信光の安祥(あんじょう)城(安城市)攻めに参加 文明十一年(一四七九)
松平親忠(ちかただ)を援(たす)け井田(岡崎市)の戦いに参加 延徳二年(一四九〇)
東漸寺開基 明応元年(一四九ニ)
伊奈若宮八幡社へ梵鐘を寄進 明応六年(一四九七)四代 本多政助 今川氏親に従い岩津城(岡崎市)攻めに参加 永正三年(一五〇六)
松平清康に属し山中・岡崎両城攻略に参加 大永四年(一五ニ四)五代 本多正忠 松平清康の吉田城(豊橋市)攻め参加、伊奈城に於いて凱旋の宴 享禄二年(一五ニ九) 六代 本多忠俊 今川に属し奥平氏の雨山(あめやま)砦(額田郡)攻めに参加 弘治二年(一五五六)
水野信元の岡崎攻めに対し石ヶ瀬で戦う 永禄三年(一五六〇)
永禄年間大塚城主岩瀬氏と戦う七代 本多忠次 家康の吉田城攻めに参加 永禄七年(一五六四)
織田信長の浅井長政攻めに参加 元亀(げんき)元年(一五七〇)
長篠合戦に鳶巣(とびがす)山で戦う 天正三年(一五七五)
家康の遠州高天神城攻めに参加 天正九年(一五八一)八代 本多康俊
〔酒井忠次の二男
本多家に養子〕下総小篠へ移封 五千石 天正十八年(一五九〇)
三河西尾へ移封 二万石 慶長六年(一六〇一)
江州膳所(ごうしゅうぜぜ)(大津市)へ移封 三万石 元和三年(一六一七)その後、康俊の子俊次も三河西尾(三万五千石)、伊勢亀山(五万石)、江州膳所(七万石)と転封(てんぽう)を重ね、本多康将(やすまさ)の代に分家に一万石を分与し、膳所六万石として定着、本多康穣(やすしげ)の代に明治の廃藩となる。康穣は十二位子爵に列せられる。
平成九年三月三十日
豊川市教育委員会
伊那史跡保存会