曽根城跡は現在、城跡は「曽根公園」として整備されています。
現地に設置されている案内板の内容を紹介します。
曽根城跡
この地は天正のはじめ、春日局の父、斎藤利三(としみつ)が、城主稲葉一鉄の重臣として住んだところである。
春日局は稲葉一鉄の姪、お安(あん)と斎藤利三との間に生まれた子であり、のちに一鉄の子、重通(しげみち)の養女となって稲葉正成(まさなり)に嫁した。
曽根城の創築年代は不明だが西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が永禄一〇年(一五六七)織田信長に仕え、五万石を領したという。
その後、この城は一鉄の子、貞通(さだみち)と孫の典通(のりみち)を経て、天正一六年(一五八八)から西尾光教(みつのり)が在城した。
光教は関ケ原合戦(一六〇〇)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になった。
一鉄の母の菩提寺である華渓寺も享保一九年(一七三四)に本丸跡に移転した。
なお、華渓寺所蔵の曽根古城跡図の中央部に「斎藤内蔵佐」と利三の屋敷が記されているから春日局は、ここで生まれたのではないかといわれている。
また石碑「史跡 曽根城本丸跡」横に設置されている案内板の内容を紹介します。
大垣市指定史跡曽根城跡
曽根城は揖斐川の支流平野井(ひらのい)川の湾曲部を利用して築かれた平城です。
創建は室町時代末期に稲葉通富(みちとみ)によってなされたと言われ、以後稲葉氏の勢力拡大の拠点になりました。中でも稲葉良通(いなばよしみち)(一鉄(いってつ))は、西美濃三人衆にも数えられるほどの優れた武将で、織田信長・豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をたてました。
天正十六年(一五八八)西尾光教(にしおみつのり)が稲葉氏に替わって曽根城主になりましたが、関ヶ原合戦後揖斐城に移り曽根城は廃城となりました。
その後、城跡は開墾され田畑となっていましたが、一鉄が生母の菩提を弔うために建てた華渓寺(かけいじ)が、享保十九年(一七三四)に現在の場所(本丸跡)に移築されました。大垣市教育委員会