高尾城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
高尾城跡(たこうじょうあと)
高尾城跡(たこうじょうあと)は標高(ひょうこう)190m程の丘陵先端部(きゅうりょうせんたんぶ)一帯に所在(しょざい)する山城である。史料中には、富樫氏(とがしうじ)の城として多胡城(たこじょう)や富樫城(とがしじょう)などと見える。長享(ちょうきょう)2年(1488)の一向一棟(長享の一揆)によって攻め落とされた加賀国守護・富樫政親(とがしまさちか)の城として知られている。富樫氏は石川郡富樫郷(いしかわぐんとがしごう)を本拠地とした加賀を代表する武士団であり、建武(けんむ)2年(1339)に加賀国守護となった。高尾城(たこうじょう)は非常時に楯籠(たてこも)る城砦(しろとりで)として利用されていたと考えられ、平時(へいじ)は野々市町住吉町(ののいちまちすみよしまち)、扇が丘町(おうぎがおかまち)に所在する守護所(富樫館(とがしやかた))で政務を執っていたとされる。
見晴らし台のあるこの地は通称「ジョウヤマ」と呼ばれる場所で、昭和45年の土取(どと)りによってその大半が失われたが、背後の通称「コジョウ」には現在も城の遺構(いこう)が残されており、虎口(入口)や曲輪(削平地)、堀切(尾根を切る堀)、切岸(急な斜面)、竪堀(たてぼり)などが確認できる。ただし、これらの遺構(いこう)の特徴は、長享の一揆後の16世紀後半頃に築造されたもので、元亀年間から天正8年(1570~1580)の柴田勝家方(しばたかついえがた)の侵攻に備えた一向一揆勢が関わった可能性が指摘されている。
金沢平野を一望できるこの地は、日本史上において重要な事件が起きた場所であり、当時を偲ぶことができる数少ない城跡(しろあと)である。平成21年 金沢市