中野城跡(日野城跡)に設置されている案内板の内容を紹介します。
史蹟中野城址(又は日野城址)
日本史上で日野城と呼ばれるこの城は、日野では古くから中野城と称しており、鎌倉時代の初期から約四百年間における日野の領主蒲生家六万石の最後の本城であった。
東方音羽の城山に蒲生家の音羽城があった文亀大永の頃(一五〇一年~一五ニ三年)に、この地に砦が造られたのが始めであり、その後、蒲生定秀が当主の頃天文二年(一五三三年)から三年にかけて本格的に築城され、同時にこの城の西側一帯の荒野に町割りをして日野の城下町をつくった。
蒲生定秀の孫に当たる蒲生氏郷(がもううじさと)は、この城で弘治二年(一五五六年)に生まれた。氏郷は二十六歳の天正十年に本能寺の変で織田信長が憤死した時、安土城にいた信長の妻妾(さいしょう)一族をこの城へ迎え入れ、明智光秀の軍を迎え撃とうとしたことは有名である。
天正十二年豊臣秀吉の命によって蒲生氏郷が伊勢松ヶ島へ国替えとなり、五十ニ年間にわたる中野城と城下町繁栄の歴史は幕を閉じた。その後氏郷は松阪城十二万石城主から天正十八年会津黒川城四十万石に移封され、黒川を若松と改め九十二万七千石の大名となったが、文禄四年四十歳の若さで京都邸に於て病没した。
徳川時代に入って天和六年(一六ニ〇年)市橋長政が中野城址へ仁正寺藩一万八千石の陣屋を構え、明治維新までの藩主となった。昭和四十四年日野川ダムの造成によって土塁などはこわされたが、本丸と堀の一部が残され、現在では涼橋神社と稲荷神社の石垣にその名を留めている。地名を古城(ふるしろ)という。日野観光協会