左側が西ノ丸、右側が西櫓です。現地に来て畝が交差せず、アミダになっていると気づきました。
1604年(慶長9年)に江戸幕府が整備した東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ箱根峠を越える道です。 非常に滑りやすいローム層だったため、石畳が敷かれたんだそうです。やっぱり滑りやすいんだ。 箱根旧街道は岱崎出丸の空堀の一部を埋め、山中城の出丸と三の丸を分断(国道1号線も同様に分断)するように通っています。
岱崎出丸の中間から北側に二段になっている曲輪で北側と東側は土塁、西側は畝堀、南側は切岸で守られています。
鋭い堀切です。水が溜まったとしても馬が飲みに降りてくるのは無理そうです。
西側には一ノ堀が走っています。櫓台跡が二箇所。 曲輪には傾斜も多く残り、改修途中だったともされます。
壮観の一言! すり鉢曲輪から岱崎出丸の中腹の西側を走っている堀で、畝は十七本あるそうです。 堀の傾斜角も70度と鋭く、すり鉢曲輪の土塁までは70度を20メートル駆け上がらなきゃダメみたいです。落ちますね。
山中城岱崎出丸の最南端の曲輪で、北西隅に櫓台跡があります。すり鉢型の独特の形をしていますが、特に尾根尖端部分の土塁を高く持ち上げようとした結果この形になったと予想。すり潰せ〜、って言いたい。
すり鉢曲輪南東の虎口。奥に広いスペースの武者溜まりがあります。
三ノ丸堀は三ノ丸の西側から岱崎出丸まで続き、天然の谷に畝(城道)を通して二重堀とされていました。右側は空堀、左側は池からの排水などにより水堀になっていたようです。両脇に堀がある城道を攻城するなんて、怖いですね。
三ノ丸西側の城道は主要部への手前で大きく屈曲しています。
貴重な城内の溜池の一つ。 馬用の飲料水などに使われたとされます。
西ノ丸の切岸面は崩落してブルーシートが貼ってある箇所がありましたが、そこから見える関東ローム層の赤土に往時を偲ぶことができました。
西櫓の西、西木戸跡あたりにあります。岱崎出丸にも城趾碑はありました。 西櫓の西側を取り巻く畝堀が背景です。
左側が西ノ丸、右側が西櫓です。現地に来て畝が交差せず、アミダになっていると気づきました。
西ノ丸は三方土塁に囲まれ、西端の櫓台も三方低土塁に囲まれています。 西ノ丸は西櫓と木橋で繋がり、兵站拠点だったようです。奥に見える、二の丸、本丸より実は低い位置にあったことがわかります。
西ノ丸の角馬出しの役割、西櫓。とてもキレイな長方形です。木橋で西ノ丸と繋がり、建物もあったそうです。
西ノ丸の櫓台が見えています。木橋がかかっていたとされますが、結構長い橋だと思います。
元西櫓は西ノ丸ができる前に最西端の防御を担っていたとされます。木橋がかかって二ノ丸の角馬出し的役割だったのでしょう。元西櫓をぐるっと囲む堀はとても深いです。右に二ノ丸の土塁が見えています。
南から見たところで、右手が二ノ丸です。この堀は本丸の北側の畝堀と合流します。
三ノ丸から二ノ丸へ掘底道のようなスロープ城道を進むと、正面に大土塁があり、右折しなきゃいけない造りになっています。 城道も土塁で囲まれていて、コッソリ兵を動かせそうです。
城内最大の曲輪で二段になっていて、南側は谷、北側は堀で守られています。結構傾斜があるので、居住するのは無理そうに思えました。
二ノ丸、本丸間は畝堀に一部障子堀が加わっています。二の丸から本丸西橋を渡ると高くて厚い土塁の虎口になっています。
本丸も二段構造で、南側は弾薬庫や兵糧庫、北側の藤棚のあたりに居館があったとされます。二ノ丸と比べて削平が良いです。
天守櫓に次ぐ第二の高地に位置して、本丸より高いところにあります。また、よく削平されていてキレイな長方形なので北ノ丸の重要さがしのばれます。 調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明しています。本丸との間には木製の橋を架けて往来していました。 木橋のかかる北ノ丸堀は山中城全体を囲む大きな堀で、深いです。
山中城の北西を走っている大きな堀で、木が生い茂っていてわかりにくいですが、畝がちゃんとあります。
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