岐阜城下、岐阜護国神社沿いなどに堀のように続いている水路は、かつて長良川から岐阜市内に農業用水を引き込んでいた忠節用水だそうです。この用水はいつ頃作らたのかは判明しておらず江戸時代にはすでにあり、岐阜城と信長が命名する前、稲葉山城とは別に井ノ口城とも呼ばれていたのはこの忠節用水の取水口があったからではと言われています。
歌碑には 「正史にはさありとも雁の涙おつ 鵜平」 と刻まれています。
元々は雨のなどに見られていたものだったそうです。 現在はポンプで常時流れております。
最近整備されたようです。
道三が自らデザインしたという家紋。 実にかっこいい。土産屋で家紋入りタオルを買ってしまいました。
本木道三人気からか道三色が昔に比べ強くなった気が
大きいので3分割
大きいので3分割
大きいので3分割
岐阜城にも板垣退助の像があるのですが、これはこの地にあった神道中教院で板垣退助演説した帰り暴漢に襲われた「岐阜事件」の現場で、有名な「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった場所だからです。 ちなみにこの事件で板垣退助は死んでいませんし、有名な言葉も本人は叫んでいなかったそうです。
写真撮影はほぼ禁止でが、楽市や道三の館コーナー等では撮影可でした。
色鮮やか
道三の甲冑の前立でかいですよね。
脈絡のない並びですが
仮設冠木門が建っていました。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
安土桃山時代の貿易商人、呂宋助左衛門(るそん すけざえもん)の物語。自治都市堺の盛衰記でもあり、信長の隆盛から豊臣大坂城の落城までの動向が商人たちの目線で語られているところがハラハラドキドキ面白い。安土城、鳥取城、大垣城、伏見城など自分が攻城した城がつぎつぎ出てくるのでそれだけでも読むスピードが早まる。
個人的には戦場で開かれる茶会の様子を興味深く読んだ。更に秀吉と千利休の関係性(エピソード)の描写が巧みで、利休が死に至る道すじが示されていて納得。ルソンで客死する高山右近の信仰の深さも絶妙にストーリーに絡み印象に残った。
大河ドラマの原作であり、放映時の記憶として鮮烈なのは善住坊の鋸引きのシーン。四十数年ぶりの再放送(4月からBSにて)ではあそこもここも興味津々、ドラマでどう描かれているかを注視している。
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する