直谷城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
長崎県指定史跡・直谷城(なおやじょう)跡〔平成十三年二月二十六日指定〕
佐世保市吉井町直谷一〇〇七―一三四他 所有者・佐世保市
直谷城は、松浦党を代表する在地領主・志佐氏の居城でした。志佐氏は、日本及び朝鮮の中世文書にその名が登場し、七代の重(かさぬ)と八代の義(よろし)の時代(一四〇〇年代)には、東シナ海を舞台に、朝鮮国や琉球国との海上交易を活発に行っていたことがわかっています。所領は志佐(松浦市志佐町)を本拠としていますが、考古学的な発掘調査により、戦国時代に、志佐の陣の内(うち)城から直谷城への本拠地移動があったと考えられています。
直谷城跡は、昭和六三年〜平成二年まで三ヵ年にわたり発掘調査が行われ、本丸跡から砂岩の岩盤を掘った掘立柱建物跡の柱穴群や溝跡等が発見されました。他に、追手郭(おってぐるわ)には三重の空堀と土塁が築かれ、一の木戸、二の木戸、要所要所に武者溜まり、出郭(でぐるわ)、竪堀、帯郭や、矢石置場等の強固な防御施設がつくられていました。
出土遺物には、平安時代の終り頃から江戸時代前半までの中国製の輸入陶磁器や、国産の土器・陶磁器類が多数あり、時期的に最も多いのは十六世紀の戦国時代のものでした。このことは、往時、龍造寺・大村連合軍や松浦隆信(平戸)に攻められ、ここに長く立て籠って戦ったことを物語っています。
最終的には、この地の覇権は戦国大名となった松浦隆信に移りました。その後、一国一城制(一六一五年)により廃城となりました。平成十四年三月 佐世保市教育委員会